活躍する高専出身者インタビュー
大学の受験勉強に時間を割く必要が無く、高度な専門性と社会性を学んだ鹿児島高専で、あらゆる事象をポジティブに捉える視座を修得しました。
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昭和37年に第1期校が開校した高専(高等専門学校)。以来、60年を超える歴史の中で、膨大な数の技術者を輩出してきました。多くの卒業生が民間企業の中で中核的な技術職となり、近年はアカデミアや官公庁で要職を務めている方も珍しくありません。一方で、企業経営者として経済社会の第一線で活躍している卒業生も多数存在します。鹿児島高専機械工学科の卒業生であり、現在東証プライム上場企業である建材大手の文化シヤッター株式会社の社長を務める小倉氏もその一人です。今回は、小倉氏に現在のポジションに至ったキャリアの経緯や、人生に於いて高専で学んだことがどのように反映されてきたのかについてお聞きしました。
(掲載開始日:2024年8月20日)
小倉 博之氏のプロフィール
鹿児島工業高等専門学校 機械工学科卒 1980年入社
大手空調設備工事会社勤務を経て、文化シヤッターに転職。設計技術者として入社したが、営業部門に異動して実績を積み重ね、担当エリアにおいてシェア拡大に尽力する。南九州支店長を務めた50歳まで鹿児島県に在住。取締役常務執行役員等を経て、2021年4月に現職に就任。
愛読書は同郷の先達として尊敬する稲盛和夫の著作『生き方 人間として一番大切なこと』。
営業に機械工学や経営工学的な考えを取り入れ、業績アップ。
鹿児島高専を卒業後、文化シヤッターに入社された経緯を教えて下さい。
鹿児島高専の機械工学科に在籍していた私は、4年生の時に大阪に本社のある大手空調機器メーカーのインターンシップに参加しました。オイルクーラーの試験設備のある部門で、そこで3週間ほど試験のお手伝いをしていたのですが、当時の指導社員の方から、卒業後は是非うちに来てほしいと言われました。私も会社の雰囲気がとても気に入ったので、その気になっていたところ、5年生の就活時期の直前に第1次オイルショック* が勃発し、その会社の新卒採用は取り止めになってしまいました。私は慌てて高専の先生に相談し、東京の空調設備工事会社への就職を紹介して貰いました。
そうして何とか就職した会社では、入社直後に3ヶ月に亘る新人研修があり、そこで様々な部門の部長からの部署紹介がありました。仕事内容を説明する講師となりつつ、自部署への配属のアピールを行うのです。そして私が手を挙げて志望したのは、同期たちの人気を集めた主流部門ではなく、汚水処理設備を担う不人気の環境衛生部門の設計職でした。
ところが入社から3年ほど経ち、この部門がメインの工事事業部に吸収されることが決まりました。それに加え、海外赴任の話が伝わってきたのです。今になって考えると、グローバルな業務の経験が出来る上に、技術力を伸ばせるチャンスだったかもしれません。しかし、当時の私には婚約者がおり、今ほど渡航が簡単な時代ではなかったことも相俟って、長期に亘る海外赴任は避けたいという強い思いがありました。
そこで転職を決意し地元に帰って職安に行ったところ、紹介されたのが文化シヤッター南九州支店の設計職だったのです。現在の妻である婚約者には、東京に本社があるから数年で東京勤務になると言いましたが、その後なんと50歳になるまで鹿児島にある南九州支店に勤務することになりました。
* 1973年に発生した、原油の供給逼迫と価格高騰による経済の世界的混乱
最初は設計職としての入社だったのですね。
そうです。シャッターの機構等についてはまったく分かってはいませんでしたが、高専で培った機械関連の知識と、前職での設計スキルがありましたから、先輩が異動した後に同期入社の新人設計職3名のリーダーを任されました。それから3年ほど経ったある日、支店長に「南九州支店の業績を拡大したい、設計職の中から1人を営業職に配置転換したい」と相談され、私の後に入った新入社員を異動させると言われました。その時に私は、「今の彼にはまだ無理です。どうしても営業を増やすのなら私がします!」と伝えたのです。それが、私が営業畑を歩む転機となりました。
営業職について、当時の私には大きな誤解がありました。メーカーの直販営業は地元の販売代理店よりも値引きが難しくないだろうから、設計事務所や建築会社に足を運べば、簡単に注文が取れると考えていたのです。ところが、それは大間違い。地方では営業が他のエリアに異動しない販売代理店の方が信用は厚く、製造元の営業部隊とは言え、そこに割って入るのが難しかったのです。私は、その壁を乗り越えるために、営業活動を工学的に捉え、最適な営業提案のプロセスの整備に加え、人の心を動かすコミュニケーションについても考えました。
そのために経営工学のみならず心理学も勉強しました。このセールスエンジニアリングとして捉え直した私流の営業活動は効果を表し、やがて業績は安定。南九州エリアでのシェアも着実に高めていきました。当時は意識しませんでしたが、高専時代に学んだ機械工学の考え方や、先生方を始めとする上級生も含めた様々な在校生たちとの出会いが活きたのだと今になって思います。
高専では様々な出会いがあり、人との絆を深める極意を身に付ける。
高専時代で印象に残っていることを教えて下さい。
まず、高専に入学しようと思った理由は、私は数学が得意だったことと、親しい友人の「高専に入学してエンジニアを目指す」という言葉が心に響いたからです。CADの無い時代ですから、私も大きな図面を描いてみたいと思ったのです。開発等のものづくりにも興味があったため、機械工学科を選びました。授業料が低かったのも魅力でした。
入学して驚いたのは、20歳の5年生の先輩が、かなり年上に見えたことです。そんな先輩たちと、寮生活やクラブ活動、一部の授業等で深く関わったことは良い勉強になりました。5歳も年齢が離れると、背格好ばかりか価値観も知識量も大きく異なります。先輩方それぞれの考え方に触れ、様々な見方があることを知ることが出来ました。
この経験は、社会人になってから大いに役立ちました。社会人になり仕事を進めていると、大半の接しやすい先輩や上司の中に、苦手な先輩がどうしても1人や2人、目の前に現れます。その人が異動になっても、また別の苦手な人が現れます。その一方で、苦手だったはずの先輩に後に助けられたり、会話が弾んで同調したことが何度もありました。要は、自分が先輩の苦手な面にどう向き合うかが重要だと気づき、その後は人との間にストレスを感じることは無くなりました。
そうした人付き合いを冷静に考えて対処するようになれたのは、私が5人兄弟であることが原点です。特に2人の個性の違う兄のどちらにも上手くコミュニケーションを取るように日頃から工夫した子ども時代を送ってきた影響が大きいと言えるでしょう。そして、その人付き合いの工夫は、多くの先輩、後輩、先生方に巡り合った高専時代に磨かれたのです。実際に、20歳の時に前職の会社に新卒入社しましたが、年上となる22〜23歳の大学卒同期や24〜25歳の大学院卒同期とも違和感なくコミュニケーションを取ることが出来ました。これも、高専の時に4歳も5歳も離れた先輩たちと年齢を超えた付き合いをしてきたからだと思います。
鹿児島高専ではどのような授業や課外活動を体験しましたか。
授業は厳しく、居眠りをしただけで単位を与えない先生もいました。実験・実習もしっかりとこなさなければなりません。しかしその分、教授陣のレベルもとても高かったと思います。数学の若松先生は、東の矢野、西の若松と、日本の数学界を牽引してきた矢野健太郎* 先生と並び称されるような存在でしたし、金属材料学の先生は教え方がユニークで難しい内容でも理解が進みました。
校内に寮があり、通学に時間がかからないこともあって自由時間は多く、何と言っても、受験勉強にたくさんの時間を割く必要が無いことが大きかったように思います。専門性を極める勉強のための時間に加え、10代後半の多感な時期に自由に思索を巡らす時間が充分にありました。
クラブ活動に関しては、最初は空手部に入ったのですが練習の怪我により退部し、その後に野球の同好会を立ち上げました。中学時代に本格的に野球に取り組んできたメンバーが少なかったこともあり、実力の近い中学校の野球部に試合を申し込んだりしました。体育祭では、学科の1年生から5年生までが1つのチームとなり、学科対抗で競うことから、一丸になれたのも思い出深いですね。今も鹿児島高専に続いている「櫓絵(やぐらえ)」** も強く印象に残っています。
* 微分幾何学の第一人者。東京工業大学名誉教授。アインシュタインと親交が深かったことでも知られる。
** 巨大な板に描いた絵をやぐらに立てかけ、競技の応援に使用するとともに、その絵自体の出来栄えも表彰の対象となる、鹿児島高専の伝統。
※体育祭の様子は鹿児島高専の取材記事を参照下さい。
不幸の中に幸福に至るヒントが隠されている。
小倉社長が現在のキャリアを築くことになった理由をどのようにお考えですか。
南九州支店長を50歳まで務めた私は、その後に中四国支社長、執行役員九州支社長を歴任し、取締役常務執行役員等を経て、2021年に代表取締役社長に就任しました。責任者を担当した部門で業績を伸ばしてきたという自負は持っていますが、私は現職に就いた1番の理由は「運」だと考えています。しかし、その運を呼び込むのはその人次第であり、更に言えば、運を持ち込んでくれるのは、私と関わった人たち全てです。
私は目の前の不幸や失敗を単純に残念だとは捉えません。その中に幸福につながる何らかのきっかけが必ず隠れているからです。例えば受注に失敗したら、その原因を探る中で足りなかったことが見えてきます。そこで得た気づきを次の商機に活かせば良いのですから、大きく落ち込む必要はありません。
このことは仕事のみならず、人生のあらゆる場面に共通します。そうしたポジティブな考え方をする人間に、周囲の人たちが集まってきます。最初から気が合う人も、苦手な人も、様々な気づきや幸福に至る機会をもたらしてくれるのです。
私はそうして南九州支店で多くの仕事仲間やお客様と出会って業績を伸ばしました。この商売は、営業が商談を行なって見積もりし、設計担当が図面を仕上げ、工場のスタッフが製作し、それを配送する人がいて、現場では工事を進め、検査を行い、検収頂いてから集金となります。この一連の工程を気持ちよくバトンタッチしていくには、感謝と謙虚の気持ちが必要になります。この感謝と謙虚が持てるのは、“例え面倒なことや難しいことがあっても、その中に次につながる何かがあるはずだ”というポジティブな考えがあるからこそです。独自のセールスエンジニアリングで成功した南九州支店長以降の役職でも業績を伸ばすことが出来たのは、私のこうした姿勢が多くの部下に支持されたからでしょう。そして社長への抜擢にもつながったのではないでしょうか。
失敗や挫折を恐れずにチャレンジして欲しい。
高専生に対する応援メッセージをお願いします。
尊敬する稲盛和夫さんも失敗の中から学ぶことは多いと著作で書かれていますが、高専生の皆さんは高専生活を目一杯頑張って、その中でたくさんの失敗や挫折を経験して下さい。その中からきっと、未来につながる大切な何かを得られるはずです。もし目の前の事象に困惑したり悩んだりしていても、逃げ出すことがなければ、いずれは必ず良い結果につながるはずです。幸い、高専にはそうしたチャレンジの機会が溢れています。高度な授業、実習、実験に加え、各種高専コンテストや寮生活、海外交流、部活動と、普通高校では得難い体験や経験が可能です。
5年間があっと言う間だったと思えるような充実した時間を持つことが出来れば、社会に出てから大きく羽ばたくことが出来るでしょう。
本日はお忙しい中、長時間に亘りご協力頂き、ありがとうございました。
文化シヤッター株式会社
設立日 | 1955年(昭和30)4月 18日 |
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資本金 | 15,051百万円 |
本社所在地 | 東京都 文京区 西片 1丁目 17番 3号 |
従業員数 | 5,290人 (連結、2024年 3月期) |
主な事業内容 | 各種シャッター、ドア、間仕切を取り扱う、東証プライム上場の総合建材メーカー。1955年に日本文化鉄扉として設立以来、住宅や工場・倉庫、商業施設向けのシャッター市場では常に国内シェア上位に位置し、ドアの売上も30%を占め、日本の都市や街の風景の一端を担ってきた企業と言えます。近年はIoTを活用したシャッター製品のスマート化を進める他、地球温暖化の影響で豪雨による災害が急増している事態にいち早く対処して開発した、建物や地下設備への浸水被害を防ぐ止水製品でも注目されています。 |