高専出身の転職は正社員専門のエリートネットワーク

谷口理事長が考える高専生の本質的な価値や潜在能力をご教示ください。


15歳の時点で学ぶことに意味を感じ、学んだことが社会に役立つ実感を得ます。実感を得ることで探求心が益々高まり、より広い様々なスキルを身に付けることが高専生の特長であり、価値といえます。

高専の新入生は15歳。つまりこの年齢から、社会に必要となる人財を育む高等教育機関が高専なのです。大学への進学が入学の目的となっている高校の普通科とは異なり、高専には数学や理科が得意な中学3年生が、自分で手がけてみたい技術領域をイメージして入学してきますから、学ぶこと自体に最初から意味を感じています。そして社会実装を念頭に置いた技術教育が施されていくうちに、自分の取り組んでいる勉強が社会に役立つ実感を得ることになり、それが益々勉強する意欲を掻き立てます。

このように専門性を極める意義を体感した高専の学生たちは、その経験を活かして専門領域以外にも手を延ばすスキルを身に付けていきます。近年、欧米で一般化しているJOB型の教育や就業が注目されるようになってきましたが、それは専門領域を極めれば他の業務はできなくても構わないというものではありません。
その本質は全く逆で、一つの専門を基礎からしっかりと極めた人財には、世の中の変化に柔軟に対応しながら専門性の幅を広げ、社会に役立つ価値を重層的に発揮するスキルが備わっているのです。これは、高専生の将来像そのものです。今後益々オープンイノベーションが社会を動かす時代になりますが、そこでは学んできた専門性をベースに、多くの人や様々な技術と出会う機会を利用し、革新的な成果を追い求めていきます。産業界に進み、あるいは大学に進学した高専生が活躍できるステージは益々広がっていると考えられるのです。最近になって本科を卒業する高専生の採用を拡大する大手企業が増えてきましたが、技術革新の最前線が高専生の価値に気づいたと言えるのではないでしょうか。


2024年5月、第5回ディープラーニングコンテスト2024の閉会後の記念写真(中央に谷口理事長)。本コンテストでは、高専で培ってきた「技術」と「ディープラーニング」を活用し、事業性を競い、起業を支援しています。このコンテストに代表されるよう、高専ではアントレプレナーシップ教育も基軸としています。

高専で最新の技術に触れ、社会に出てからさらに専門を極めた、あるいは専門性の幅を広げた高専の卒業生は、そのスキルをより高次で発揮することを求めるようになります。それはグローバル、もしくは起業というステージにも移行する選択に繋がっていきます。高専の卒業生は、企業のグローバル戦略や世界に通用する技術革新の先頭に立つ、もしくは新たなテクノロジーやビジネスモデルでスタートアップを図るアントレプレナーとなり、日本の産業界やアカデミアの世界で戦う競争力を生み出す存在になり得るのです。
このような高専生の「高い技術力」、「社会貢献へのモチベーション」、「自由な発想力」から生み出される高い起業力に文部科学省も期待し、アントレプレナーシップ教育に取り組む全ての国公私立高専を支援する「高等専門学校スタートアップ教育環境整備事業」を、2022年度第2次補正予算で開始しています。

日本の社会が抱える課題に、高専はどう関わっていくのでしょうか。


2025年2月、滋賀県立高専共創フォーラムでの挨拶。どのような公の場であっても多くの方々に、高専生を国の問題を治す「社会のお医者さん(Social Doctor)」と広報しています。

「失われた30年」という言葉に代表されるように、平成以降はそれまで世界のトップを歩んでいた日本の国際競争力が徐々に低迷していきました。その原因の一つに、産業界においてもアカデミアにおいても、世界で戦おうという意識が薄れてしまったことが考えられます。だからこそ、高専在学中に培われた課題解決力や社会実装力によってもたらされる理論のみではない、手を動かすことができるという競争力が益々求められるようになっています。高専の卒業生は、国家が抱える重要な問題を治し、健康な発展に導くことのできる、言わば「社会のお医者さん(Social Doctor)」だと私はことある毎に広報しています。

さらに日本には本格的な少子化の波が押し寄せ、内需の拡大は見込めなくなりました。この少子化は日本を支えていく人財の減少にも直結します。事実、近年の1学年あたりの人口は大幅に減少。1960年頃には250万人を超え、その後の進学や就業で高度経済成長期に活躍した中学卒業者の数が、現在では100万人前後になり、いずれ70万人台にまで落ち込むことが確実視されています。日本がこれからかつてのような存在感を世界で復活させるには、1人が3倍のパフォーマンスを発揮する必要があると言っても過言ではありません。このような教育の曲がり角で、卒業後に「社会のお医者さん」となって日本の競争力を回復させる高専生の育成をしっかり行わないと、日本の産業競争力は今以上に揺らぐことになってしまいます。


神山まるごと高専の校舎「OFFICE」の様子。同校は、アントレプレナーシップ(起業家精神)の育成に力を入れており、卒業生の4割が起業することを目標に掲げています。2023年4月、徳島県名西郡(みょうざいぐん)神山町に全国58番目の高専として開校しました。

現実に地方では小中学校の閉校が各地で見られます。入学志願者が減少している大学も少なくありません。そうした波に高専が巻き込まれることは現段階ではありません。それどころか2023年に徳島県に神山まるごと高専が開校し、2028年には滋賀県に滋賀県立高専が新たに開校する予定です。今の時代に日本の社会が高専教育に期待している証左だと言えます。それでも子供の数は益々減っていきますから、高専も影響を受けざるを得ない時期が到来するでしょう。
国立高専は元より、公立・私立の高専とも密な協力関係にある高専機構としては、1学年50万人という時代になろうとも、現在の全ての高専を合わせた1学年1万人という学生の数は守りたいと思います。人口減少に逆らう事が出来ず、それが無理となっても、58という現在の国内の高専の数(滋賀県立高専の開校により59校)は絶対に減らしてはならないと考えます。もしも、高専の志願者数が減るような事態になったとしても、学校の数も教員の数も削減しなければならないというのは、消極的な発想で、1クラスあたりの学生数のみを減らせば良いのです。一方で、教員志願者の数が減っていく事も想定されますが、そこはオンラインによる高専間をまたいだ同時授業や、録画された映像による補完で十分に対応が可能です。
現在の世界の1クラスの標準は20人。日本の学校の学級人数はまだ減らせます。現在の高専の40人学級が20人学級2クラスになれば教育の中身は確実に濃くなり、定評のある高専の質の高い指導は、一人ひとりの学生に一層深く行き渡ることになります。少子化という逆境を逆手に取り、少人数学級を導入すれば高専教育のパフォーマンスが高まるのは間違いありません。今以上により世の中の役に立つ人財に育んでいく環境を実現できるでしょう。

高専のグローバル化についての構想をお聞かせください。


2022年11月高等専門学校制度創設60周年記念式典が行われ、式辞で谷口理事長から「高専」及び国際語にもなった「KOSEN」が紹介されました。

2022年11月高等専門学校制度創設60周年記念式典の翌日には、国際学長フォーラムが行われ、谷口理事長はじめ、各国の政府機関、大学、高専、ポリテク等の代表間で、新たな時代に求められるエンジニア育成の在り方について、活発な討議がなされました。

日本の高専教育制度を本格的に導入したタイ王国初の高専(KOSEN-KMITL)が2019年5月に、2校目の高専(KOSEN KMUTT)が2020年6月に、それぞれ開校しました。タイ以外にも、モンゴルに3高専を設置し、ベトナムではベトナム商工省が管轄する3つの工業短期大学等の教育高度化支援を行い、高専教育システムの導入に向けて準備中のエジプトからは高専の教育現場視察やカリキュラムに関する意見交換等を行うために2025年の1月に視察団が来日しました。また、全国の高専各校は多くの国々から留学生を受け入れています。“KOSEN”は、世界各地で社会を牽引する高等教育制度であるという認識が広がっているのです。
こうしたグローバル展開の推進により、2024年3月時点で高専機構が学術交流協定を締結した海外教育研究機関は448機関(各国立高専において延べ417機関、高専機構本部において31機関)に達しています。こうした高専のグローバル展開は各国への貢献はもちろんのこと、世界のテクノロジー開発における日本のプレゼンスを高め、日本の技術を世界に波及させる足がかりにもなるでしょう。

それ以上に高専のグローバル推進を通して重要視しているのは、日本の高専生の海外との交流です。高専の卒業生がグローバルな環境で頭角を表すような活躍を見せていくための国際コミュニケーション能力を磨くことを目的とする、留学や海外インターンシップを推奨しています。現在は年間で約4000〜5000人の学生を海外に送り出していますが、その数をもっと増やしていく考えです。
2019年には、グローバルに活躍できる技術者を育てるため、「グローバルエンジニア育成事業」を開始しました。この事業では、高専各校が取り組む学生の国際的なコミュニケーション能力や、海外で積極的に活動する意欲の向上を支援しています。いずれも、高専卒業生が日本の国際競争力に寄与する存在へと育むための一環であることに間違いありません。

また、近年は国籍や性別を問わず多様性を尊重する社会に向かっていますが、高専機構は2011年に早くも「ダイバーシティ宣言」をして、2024年には「ダイバーシティ・エクイティ&インクルージョン(DE&I)推進宣言」を策定し、多様な一人ひとりの学生が、自他の違いを尊重し、相互理解を深められる風土を醸成してきました。その成果としては、本科の女性学生比率が24.6%にまで増加したことなどが挙げられます。

谷口理事長が自ら課しておられる役割やミッションをご説明いただけますでしょうか。


最初の更新船となった「大島丸」。高専ならではの理由・目的によって商船高専5校(鳥羽、広島、弓削、大島、富山)の練習船を新造しています。

高専機構は時代に即した高専教育の最適解を考え、学習指導要領にとらわれない独自のカリキュラム作りや、研究活動の推進をサポートしています。そうした積極的な取り組みには年間予算で充当される額以上の活動費が不可欠になります。高専機構は、高専各校にアグレッシブな教育を求めるだけではなく、外部予算の獲得に尽力することでも各校を支援しなければなりません。実際に私は、文部科学省はもちろん有力政治家や産業界に対しても、積極的に訴求する場を設けて、研究予算や施設予算について数々の要望を申し上げてきました。その成果としては、幾つかの外部予算獲得につながっています。

ただ、全ての予算要求が通る訳ではなく、多くは希望通りとはなりません。高専だから必要、高専にこそ必要という理由を明確に訴求していく必要があります。そうした高専ならではの予算獲得の事例に、商船高専5校(鳥羽、広島、弓削、大島の商船高専4校に加え富山高専商船科を含む)の練習船を新造して更新する予算を獲得できたことが挙げられます。練習船を航海や機関に関する実習の場としてだけではなく、災害時には被災地へ飲料水や食糧を供給する役目(かつて同様な実績があります)や、携帯電話の移動基地局としての活用を御理解いただいた事が認められたのです。

先にも述べましたが、高専教育には日本の国際競争力を再生に導く可能性があります。国が用意したファンドや研究予算のみならず、産業界からの支援にも期待しています。中には高専卒業生が入社後に大活躍をして経営に大きく貢献したので寄付を申し出ていただいた企業もあります。これからは益々外部に対して、時代に先駆けて独自に取り組む高専教育の価値を積極的にPRし、研究費や設備費を外部から提供していただくことで教育現場の努力を最大限バックアップしていきたいと考えています。

高専の在校生と卒業生への応援メッセージをお願いします。


何事にも挑戦するマインドが「高専スピリッツ」です。高専での中身の濃い5年間を全うされたことに誇りを持って世の中に貢献していただきたいと望みます。

在校生の方には、自分の好きな技術分野を極めて、その成果を遠慮することなく大いに発信して欲しいと考えています。各種コンテストや地域産業との連携、海外渡航交流など、様々な自己表現の場があることは皆さんもご承知でしょうが、決して一部の限られた学生さんのために用意されている機会ではありません。どの学生さんでもしっかりと準備して臨めば、そうした場面で主役になれるチャンスがあるはずです。さらに言えば、コンテストに勝ったらそれがゴールではなく、そこからが将来に大きく飛躍するスタートとなるはずです。

産業界でご活躍されている高専の卒業生の方々には、カリキュラムの面でもすこぶる中身の濃い5年間を全うされたことに誇りを持って、世の中に貢献していただきたいと望みます。最終学歴が大学や大学院となった卒業生の方であっても、高専で培った学びの体験は現在の実力の礎になっているはずです。学歴とは最終学歴を表すものではなく、学習歴です。高専の5年間の学習歴を是非とも多くの人にアピールしていただきたいと考えています。

皆さんのご活躍が、今後の日本の発展に大きな影響を及ぼすのは間違いありません。産業界の発展への貢献のみならず、日本の未来を担う子供たちが高専に入学して優れた研究者やエンジニアへと育ち、同時に幸せな人生を獲得するロールモデルになっていただくことを期待してやみません。

本日はお忙しい中、長時間に亘りご協力していただき、ありがとうございました。

釧路高専の概要についてご紹介下さい。


釧路工業高等専門学校 正門前

北海道釧路市の西方、たんちょう釧路空港に近い場所に立地する釧路高専は、国立高専4期校として昭和40年に開校。当初は機械工学、電気工学、建築の各学科があり、その後に電子工学と情報工学が加わり、しばらくは5学科体制で高い専門性を持った人材の育成を進めてきました。
ところが時は平成に移り、企業の製品開発や設計において高度化や複合化、融合化が進んだことで、学生時代に学んだ分野の視点だけでは第一線のものづくりの現場で実力が上手く発揮できないという場面が、社会と直結した高等教育機関において問題視されるようになりました。
本校にも、社会に早期に役立つ実践的な技術と創造性を兼ね備えた卒業生を送り出す使命があります。そこで5学科体制を一旦リセットし、抜本的な改組を行うことになったのです。

当時の学校関係者の間では学科の再編案で侃侃諤諤の議論があったそうですが、結果として平成28年に全学生が入学初年度を一般教養科目と専門基礎科目の授業を受け、2年生進学時に学生の全員が広い視野で技術を学ぶことを指向して設置した創造工学科に進むという学科の改組が行われました。
ただ、創造工学科が広くとも浅い知識しか身につけられない学科に陥ってはなりません。しっかりとした専門性が身につくことを担保した上で他の分野の基礎を学べる、そんな工夫が必要です。
そうした配慮から、創造工学科の中に3つのコースを設定しました。情報工学分野と機械工学分野にわたるスマートメカニクスコース、電気工学分野と電子工学分野にわたるエレクトロニクスコース、そして建築デザインコースです。
前2コースの学生は本科の4年間、所属分野で専門性を獲得しつつ、コース内のもう一方の分野についても学び、さらに学科共通科目も受講することで、社会の期待に即した人材となって巣立っていくことになります。
建築デザインコースの学生は、建築設計を軸に街づくりまで視野に収める学びで、学生の指向に応じてゼネコン等に加え鉄道会社など都市開発を担う企業への進路が開けています。

創造工学科を卒業した学生は、開始年度からみてまだまだ少数ですが、開校から実践的な技術を持った人材の輩出を企図して様々な教育施策に取り組んできた本校は、進路先から高い評価を頂いています。
多くの卒業生が活躍する釧路市役所からは公務員試験の受験資格において大学卒業者と同じ扱いを受けており、北海道大学からは北海道内の4高専を対象に約20名の編入推薦枠が認められています。

釧路高専の特徴的な取り組みを教えて下さい。


5学科を3コースに再編し、専門性を担保しつつ企業から求められる高度化や複合化に対応、また、5分野の混合チームで地域課題に取り組む複合融合演習によって、生きた社会実装を体現しています。

創造工学科を設置する背景となった、専門分野の隣接領域にも視野を広げて社会の実情に対応できる人材を育むというコンセプトを推進する取り組みの一つに、複合融合演習があります。
これは、5分野混合チームが現場目線で地域課題の本質を理解し、アイデア創出から試作までを行う、釧路高専独自の社会実装型フィールドワークです。
先般は、防災というテーマで段ボールベッドを開発しました。釧路が面する十勝沖は地震の発生が多いこともあって釧路地域の住民は防災意識が高く、避難先に必要な段ボールベッドの開発は地域ニーズに即したものでした。
当初、学生たちは寝心地の良さを追求。しかし使用する行政側と課題の本質に向けた協議を進めていく中で、平時における収納のしやすさや非常時の組み立てのしやすさも重要であることが判明。学生たちは改良を進め、使用する側の要望に対して十分に応えられるプロトタイプにまで漕ぎ着くことができました。

また、学生たちの日々の学習意欲をモチベートする毎年のイベントとして、4年生を対象にキャリア講演会を行なっています。
その内容は、外部講師に、高専での学びが社会で役立つことを講演してもらうものとなっています。
前回は堀江貴文氏に講演して頂きました。実は、堀江さんが設立した日本初のロケット開発会社であるインターステラテクノロジズ株式会社の本拠地は、釧路市と同じ道東の大樹町(たいきちょう)にあり、そこに本校の卒業生が入社しています。
その卒業生の優秀さを認めた堀江さんが、講師を買って出て頂きました。
講演会当日に堀江さんが語られた「高専生の皆さんが学ばれていることは、すべてロケット開発に必要な技術です」という言葉に、拝聴した学生たちは目を輝かせていました。

地域社会や地域産業、他の高専との連携についてお聞かせ下さい。


日本で唯一民間企業でロケットの打ち上げに成功したインターステラテクノロジズ株式会社やロケットランチャーシステムを担当する地元企業の釧路製作所主催のロケットランチャー製作プロジェクトへの参加をきっかけにロケットランチャープロジェクト部が発足しました。ロケット開発プロジェクトに学生が関与できる本格的なクラブです。

堀江さんのインターステラテクノロジズ株式会社に技術協力している、株式会社釧路製作所という企業があります。本来は橋梁工事が専門ですが、打ち上げプロジェクトにはロケットの発射台設置を精密に調整する技術で参加し、出資もされています。
この釧路製作所には本校からの卒業生が就職していますが、在校生の課外活動にも技術面での協力を頂いており、特にロケットランチャー(※)プロジェクト部が大変お世話になっています。

釧路市に本社を置く食品機械メーカーの株式会社ニッコーにはインターンシップで協力を頂いてますし、卒業生の就職先でも人気です。
同社はロボットシステムの技術に長け、ものづくり日本大賞やロボット大賞などの受賞歴を誇っています。
そもそもは地場の水産加工品産業が海外の加工業者に価格競争で劣勢を強いられ、熟練の加工職人が高齢となり後継者が足りないといった釧路を中心とする道東エリアの重要課題に、設備の自動化やロボティクスで応えていくことによって成長された企業です。
現在は水産業の他にも農業や酪農、観光業、飲食店などあらゆる分野がロボット化する時代を見据え、DX化の推進や省力化を追求されています。
そんな同社において、就職した本校卒業生たちは高専時代に養った技術や思考力を存分に発揮しているようです。

株式会社ニッコーとの共同教育を活かし、創造工学科機械工学分野を中心にロボット技術に注力している本校は、国立高専機構の先端技術教育推進策の一つであるCOMPASS 5.0ロボット分野に、協力校として令和4年度より参画することになりました。
ロボット分野のプロデューサー的人材育成を柱とする教育パッケージを作成し、全国の高専に展開していくプロジェクトが進んでいます。

※小型ロケットの発射装置

釧路高専からはどのような人材が輩出されていますか。

実は、先の株式会社ニッコーの佐藤一雄社長は釧路高専の卒業生です。
同社の、技術で社会問題の解決に立ち向かうという社風は、まさに高専教育と理念が一致していますが、佐藤社長が釧路高専時代に培った「人に役立つものづくりのマインド」を、今も具現化されているといっても過言ではないでしょう。

また、セブンイレブンやイトーヨーカ堂を擁するセブン&アイグループの金融機関であるセブン銀行の松橋正明社長も、釧路高専の出身です。
高専卒業者と大手金融機関の経営者では、イメージが結びつかないかもしれませんが、松橋社長は釧路高専卒業後にNECグループに入社し、図書館の蔵書検索の開発などを経てアイワイバンク(現セブン銀行)に転職されたという経緯です。
その後、流通業の進化の鍵となったATMの企画開発での実績が認められて役員となり、社長に就任されました。優れたエンジニアは経営トップにも立てるという好例ではないでしょうか。

大塚先生のご経歴を簡単に振り返って頂けますか。


講師から長い期間高専で学生を見てきたことから、高専生の能力の高さ、素直さ、勤勉さを充分理解しています。その力を社会や人の役に立ち、喜んでもらおうとする「志」をもって活躍をしてほしいと期待しています。

私も高専で学んだ一人です。卒業したのは東京高専の電子工学科で、東京工業大学に編入学し、工学部電気・電子工学科を卒業後に同大学の大学院理工学研究科博士課程を修了。工学部の助手を経て東京高専の講師に移籍しました。
それから同高専で助教授、教授、副校長を担い、令和4年に現在の釧路高専校長に着任しました。
専門は電気・電子工学で、東工大では高温超伝導薄膜の作成やアナログLSIの自動設計CADの開発、動画圧縮符号・復号用LSIの開発などに関する研究を行い、東京高専の研究者・指導担当としては指紋認証や虹彩認証、AI画像認識などに取り組んでいました。

振り返ってみますと、私の経歴は人とのご縁が大きな意味を持っているように思えます。
高専に転職したのは、高専時代の恩師に勧められたのがきっかけですし、釧路高専とも以前から縁がありました。
3代前の釧路高専校長である岸浪建史先生とは、今から10年前に高専の会議を通して知り合い、釧路高専で実践されている地域と一緒に学生を育てる活動を先生から直にお聞きし、薫陶を受けていたのです。

高専の在校生及び卒業生へのメッセージをお願いします。

高専は大学受験に労力を割く必要が無く、時間をたっぷり使って授業では頭を使って考えながら知識を蓄え、実験や実習では手を動かして結果を目で確かめることによる経験を得ることができます。
この知識と経験が合わさって、実践的に役立つ「知恵」を養えることができると私は考えます。
就職して、企業の製品開発上の課題や、それを取り巻く社会の難題に突き当たった時に、突破力をもたらすのはこの「知恵」に他なりません。
高専で学ぶ在校生は知恵という突破力を獲得することができ、卒業された皆さんには、すでに備わっているはずです。

それに加えて必要なのは、努力を厭わず人に役立ちたい、喜んでもらいたいという、「 志 」です。
クルマに例えるなら、知識や技術はボディやタイヤ。「 志 」はエンジンです。成長を促し、壁を乗り越える力となる「 志 」を確かに持って、輝ける未来を歩んで下さい。

本日はお忙しい中、長時間に亘りご協力頂き、ありがとうございました。

本意とは異なる進路でも、前向きさを失わなければ道は開ける。

中学校から久留米高専にどのような想いで進学されたのですか。


2025年1月に母校である久留米高専で記念講演をされた際の資料をもとに高専時代の思い出をお話頂きました。

一般的に高専を志望する中学生は、数学や理科が得意であるとか、ものづくりや技術への関心が高いといった特徴を持っています。ところが私はそのような中学生ではありませんでした。5教科の中では国語と英語が大好きであり、得意でもありました。その次が社会。数学と理科は苦手だったのです。当然の如く、当時の私は普通高校に進学した後に大学は文系の学部に行くつもりでした。

そんな私が希望に反して高専に進学したのは、家族の経済的な理由からです。
私の実家は福岡県飯塚市で様々な商材を扱う小間物の卸業を経営していたのですが、私の幼少期に2度にわたって大規模な火事が発生。そのために経営が厳しくなり、私の家の経済状況は逼迫してしまいました。それで中学3年時に行われた進学に関する三者面談で父が経済事情を話したところ、担任の先生は国立の久留米高専への進学を親身になって勧めてくれたのです。授業料や寮費が安く、奨学金の取得も可能で、大学に行かなくても就職に困らないといったのが推奨理由でした。親を気遣った私は、何とか高専に入学したいと思いました。金属工学科を受験したのは、倍率が最も低かったから。金属工学という私の現在の専門の原点は、やむなくの選択だったのです。

久留米高専入学後、現在に導く向学心はどう形成されたのですか。


英語が得意であったことから、英語弁論大会に出場され、高専2年・3年時には、九州地区優勝。更に3年時には写真の「朝日新聞主催の全日本高等学校英語弁論大会」で、全国3位に入賞されました。(中央右が熊井先生)

まず、久留米高専に入学して痛感したのは、同級生たちの理数系の能力の高さです。高度な数学の授業に難なくついていったり、正確な設計図面を仕上げたり、同級生たちは久留米高専での勉強が楽しそうでした。私はと言えば、理数系の授業について行くのに必死。何とか授業で取り残されないように努力していましたが、最初の半年はいつ辞めようかとばかり考えていました。
そんな私の心の拠り所だったのは、1年生から3年生の間では少なくなかった一般科目でした。特に英語の授業には熱が入りました。

転機が訪れたのは2年生に進級した時です。
フルブライト奨学金で米国ウィスコンシン大学に留学していた永田 元義(ながた もとよし)先生が久留米高専に赴任。私は英語の弁論術を特別にご指南頂くようになりました。永田先生が私を集中指導されようとしたのは、私の英語の発音が良かったからだそうです。実は中学の時の英語の授業で、当時の先生が英語の習得には正確な発音が大事と考えて自ら教科書の英文を読まず、いつも録音されたネイティブスピーカーの英語を聞かせてくれました。そのお陰で私の発音レベルが向上したのだと思います。
そうして永田先生の特訓を受けた私は、九州地区高専英語弁論大会に2年生の時と3年生の時に出場し、いずれも優勝しました。それだけでは終わりません。3年生の後半に出場した朝日新聞が主催する全日本高等学校英語弁論大会では、全国3位を獲得。当時としては理系の高専生が全国レベルの英語コンテストで入賞するのは画期的だったことから、新聞にも取り上げられました。私の高専下級生時代は、英語力を磨くことによって心の張り合いを保っていたのです。

4年生に進級後は、専門領域を深める授業が大半を占めるようになります。英語で「学ぶ楽しさ」を知った私は、いつしか金属工学への興味も高まっていました。高専は実験や実習が多く、論理を学ぶだけではなく目で見て手で触って確かめるダイナミックな学習を行います。特に金属工学は、物質の断面の模様や組織構造の観察など、数式とは異なる判断要素が多く、こうした点がもしかしたら私に向いていたのかもしれません。

私が高専の本科卒業後も、専門を極めたいと思ったきっかけは、神奈川県横浜市にある東芝のタービン工場での実習でした。
発電所タービンのブレードの金属疲労度合いを確かめるべく破壊試験や組織観察を行なったのですが、初めて電子顕微鏡を使用したり、撮影した写真の現像を学んだりと、私にとって産業界のリアルな技術現場は刺激的でした。そして東芝の担当の方が、実習に真剣に向き合っていた私に「卒業したらウチに来ないか」と言ってくれたのです。とても光栄で嬉しいオファーでしたが、私の将来に向けての指針はその時にはっきりしました。
口をついて出たのは「大学に編入しようと思います」という返事だったのです。

学校中の先生たちが私の編入試験合格を後押し。

大学の編入試験合格は現実的な目標になったのですか。

試験までに残された1年と少しの間で、東京工業大学を第一志望に受験勉強を開始しました。実家の商売が新たな卸先を得て挽回したことも大きかったですね。東京工業大学を選んだのは、金属工学の学科があり、編入枠が設けられていたからです。当時は東京大学や九州大学にも同じ分野の学科はありましたが、編入試験は実施されていませんでした。また、現在多くの高専本科卒業生を受け入れている豊橋技術科学大学や長岡技術科学大学は設立前でした。
ただ、大学に進学することは決めましたが、進路は東京工業大学の工学部 金属工学科の一択ではありません。受からなければ、得意の英語を伸ばせる外国語系の大学に一般入試で入ることも考えていました。しかし、それから卒業するまでの私は、予想もしなかった期待を背負うことになりました。多くの恩師たちから、いくら感謝しても仕切れないバックアップを受けたのです。

通常授業とは別の指導を受けられたのでしょうか。


当時、高専からの編入枠が設けられていた「東京工業大学」を目指すことになり、編入学にあたっても多くの先生方から多大な支援を受けられました。

私が入学した1972年当時は、高専の本科卒業生が大学の3年次に編入学する例は今ほど多くありませんでした。大学自体も、高専生の研究者やエンジニア候補者としての高い価値が認知されていなかったようです。
しかし、和栗 明(わくり あきら)校長先生以下、久留米高専の教員の皆さんには在校生たちの未来の可能性を引き出し、卒業生を研究開発の最前線で活躍出来る人材に育もうとする熱意に溢れていました。ですから、東京工業大学への編入学を目指すことを決めた私にも、恩師たちから尋常ではない手厚いサポートがあったのです。高専創成期の当時には、どの高専にも高等教育機関としての可能性を開こうとする前向きさが息づいていたのかもしれません。

まず、試験科目の中にドイツ語があったことから、ドイツ語の教員である白石 敬(しらいし たかし)先生がマンツーマンで試験対策を施して頂きました。数学の松塚 春海(まつづか はるみ)先生は、勉強時間を確保出来るはずだからと、かつての教え子である病院長夫人に話を通して頂き、下宿と食事を提供してもらうことになりました。その対価は院長のお子さんの家庭教師料のみであり、私はアルバイトに時間を取られることなく受験勉強に集中できたのです。非鉄精錬が専門の重松 浩氣(しげまつ こうき)先生からは「私が君の卒論の担当教授になる。編入試験が終わるまで、卒論より試験勉強を優先して構わない」とまで言って頂けました。そして夏場の暑い季節に校内で唯一冷房の効いていたX線室を受験勉強目的に開放して下さったのです。その他にも苦労して集めた編入試験の過去問の中には、高専つながりの先輩である神戸市立高専出身の益 一哉前東京工業大学学長からのものも混じっていました。
こうした恩師や先輩からの強力なバックアップのお陰で、私は無事に東京工業大学工学部の編入試験に合格しました。そして、合格が決まった後に試験担当の先生からお聞きしたのですが、和栗 明校長に書いて頂いた私の推薦状の中身がとんでもないことが判明しました。「熊井くんを合格させないと、御校に殴り込むぞ」くらいの圧力だったのです。
今も恩師たちから頂いた熱い応援を思い起こすたびに、感謝の念が湧き起こります。

努力は誰かが必ず見ていてくれる。

高専をご卒業後のキャリアをご紹介下さい。


液体アルミニウムが冷える過程で、固相(結晶)が形成され、最初の結晶が周囲の液体から樹枝状に成長したアルミニウムのデンドライト(樹枝状晶)。この大きさは非常に珍しい。

私は久留米高専を受験する際に消去法的に金属工学を選びました。しかし、金属に関する基礎的な知識をしっかりと習得して東京工業大学に入り、そこでは非鉄金属を専門領域に選びました。それから研究対象をアルミニウムに絞り、大学院を経て同校の教員に就職しています。
1987年からの2年間はケンブリッジ大学の客員研究員として渡英し、帰国後は1995年に東京工業大学助教授、2005年に同校教授に就いています。表彰に関しては数多く頂き、特許も取得しています。近年はCO2削減に寄与するアルミニウムの新たなリサイクル技術の確立を目指しており、2021年からは主催するグループの研究テーマが国家プロジェクトに認められ、NEDO(新エネルギー・産業技術開発機構)の実用化研究「資源循環型社会構築に向けたアルミニウム資源のアップグレードサイクル技術開発」として採択されています。


しかしこれまでの研究キャリアが順風満帆だったとは言えません。
一つの研究を進める中で行き詰まることは多いですし、社会情勢に応じて研究テーマの大幅な変更を余儀なくされたこともしばしばあります。そうした壁に突き当たった際には、高専時代を思い起こします。不本意で始めた勉強も好きになろうと努力しているうちに楽しくなった…。高い目標を目指して頑張っていると多くの人から自然に応援してもらえた…。といった高専時代の体験が、私を再起させてくれるのです。

高専生活の密な人間関係は将来の財産になります。

高専生・高専卒業生に対する応援メッセージをお願いします。


熊井先生は、個人の研究成果に留まらず、学術分野全体の発展や次世代の研究者育成に情熱を傾けておられます。これには、高専時代の恩師、友人からだけでなく、高専での生活そのものが強く影響をしています。

高専教育の最大の特徴は、実験や実習を通じてモノに触れて学んでいくことだと思います。頭で理解するだけではなく、目で見て、手を動かして、真理に近づけるのです。そして、その結果や成果をレポートにまとめるところまで行います。この一連のプロセスは、普通の高校から大学に進めば、学部の3年生までは経験できません。本科の5年間を卒業して就職した方は十分に即戦力ですし、大学3年時に編入したのならば、その時点で学部から上がってきた同級生と大きく差がついています。
この実体験で磨かれたスキルや知識には、是非自信を持って頂きたいと思います。私は企業との共同研究を数多く取り行ってきましたが、企業の技術リーダーの方々が口々におっしゃるのは、「高専出身の新人は、仕事の取り掛かりが早い」という高い評価です。高専での中身の濃い勉強は大変だったでしょう。でも、それだけに培った価値は高いのです。

それにもう一つ、5年間を一つの専門クラスで過ごしてきたことで、多くの友人に恵まれていることと思います。熱い指導を施された恩師の方々や、各種コンテストを目指して共に汗を流したり、寮生活でお互いを深く知ったりした仲間たちも、かけがえのない存在です。高専生活の5年間は、未来の自分をしっかりと築いてくれる礎になっているでしょう。

本日は長時間にわたって貴重なお話を頂き、ありがとうございました。

海外に広がる「KOSEN」 天皇陛下がモンゴルの高専モデル校訪問


2022年11月の国際学長フォーラムで交流を深める国立高専機構理事長とモンゴルの高専関係者ら

 天皇皇后両陛下は2025年7月6日~13日、モンゴルを公式訪問されました。9日には首都ウランバートルで、日本の高等専門学校をモデルとした私立学校「モンゴルコーセン技術カレッジ」を視察されました。中学卒業後の5年間で専門知識を身に付けた技術者を育成するという日本の「高専」教育は海外でも高く評価され、アジアで導入の動きがあります。天皇陛下はモンゴルの学生たちが創作したロボットや計測機器をご覧になり、「頑張ってください」とお言葉をお掛けになりました。

 高専の教育システムは、自国のモノづくりを担うエンジニアを育てたいというニーズから近年、アジアで広がりつつあり、日本の高専関係者も日本型高等専門学校教育制度「KOSEN」として推進してきました。タイでは2019年以降に2校(KOSEN-KMITL、KOSEN KMUTT)が開校。日本の高専教員が現地教員の研修やサポートを行っており、ベトナムでも宇部工業高等専門学校などの高専と提携した教育カリキュラムが導入されています。
 モンゴルでは、日本の高専で学んだモンゴル人留学生と高専関係者らが協力し、2014年に3校が開校しました。苫小牧工業高等専門学校など日本の高専からは機械工学やコンピューター工学の教員を派遣し、モンゴルの学生は日本で高専生によるディープラーニングコンテスト(DCON)や就業体験に参加しています。天皇陛下が訪問されたモンゴルコーセン技術カレッジでは、電気電子工学や機械工学など5つの学科で約350人が学んでおり、卒業生の約4割が日本で就職しています。
 在位中の天皇陛下がモンゴルを訪問されるのは初めて。天皇陛下は8日間の日程で、国賓として歓迎行事やスポーツの祭典にご出席されました。
モンゴルコーセン技術カレッジには9日に訪問され、教室を視察。モンゴルでの「ロボコン」大会出場など学生の日頃の活動について教員から説明をお聞きになり、学生たちと和やかに懇談されました。

安部様は福岡県のご出身とお聞きしています。


近代化から取り残された農村で生まれ育ちましたが、のちに新しい日本の価値観とのギャップを受け入れられず悩みました。この違和感が作家を目指す要因となっています。

ぼくは1955年に八女やめ郡の黒木町(現・八女市)という山間部の集落に生まれました。当時は黒木町に限らず、日本全国の山間部ではまだ前近代的な農業が営まれていた時代です。私が小学校に入るくらいまでは、千歯せんばや、唐箕とうみなど、室町時代に開発された農機具をそのまま使っているような環境でした。近代化から取り残された農村として、500年ほど停滞していたとも言えるでしょう。

うちの母方は橋本家といい、大阪・河内の豪族だった楠木正成の一門の末裔です。南北朝の対立後、後醍醐天皇の孫の良成親王が南朝の旗印として九州に派遣された際、太刀持ちとして随行したのが橋本家でした。それからおよそ600年にわたって八女の山間部に隠れ潜んでいた、いわば山岳ゲリラの末裔です。これに対して父方の安部家は、橋本家のすぐ近くに150年ほど居を構えていた農家でした。父は非常に優しい人で、母はどこか一本筋の通った性格の女性でした。

このような旧家に生まれ、私は祖父母から、夜になると囲炉裏端で集落の言い伝えを語り聞かされて育ちました。おかげで後年、「太平記」などの室町時代の軍記物を読むと、「ああ、ばぁちゃんが話してたなぁ」と聞き覚えのある言葉やエピソードが思い起こされ、抵抗なく理解することができました。

安部様はどのような経緯で高専に進学されたのでしょうか。

率直に申し上げれば、中学校の成績は非常に良かったのだけれど、大学まで行かせてもらう経済力が安部家になかったからです。当時の同世代の高専生の多くが、そういった理由で高専に進学していたように思います。

直接的には、中学時代にお世話になった担任の先生に高専への進学を勧めて頂きました。学費の心配をせずに大学と同等の高度な教育が受けられるし、高専は就職率100%だと。しかも、誰もが知るような大企業や自治体などに就職出来るので、将来の可能性も拓けるよと。

この先生が、以来50年近くにわたって親しくお付き合いを頂くことになる、馬渡まわたり正明先生です。久留米高専を受験した際も、久留米に近い先生のご自宅に前泊させて頂いて試験に臨んでいます。そして高専に進学してからは、何か悩みがあると先生のもとに通って、いろいろ相談をするようになりました。

久留米高専では機械工学科を選ばれていますが、学生生活はいかがでしたか?

当時は特に深い考えがあって機械工学を選んだ訳ではありません。中学生ながら数学が得意であったし、機械工学科だけ2クラスあったので合格しやすいんじゃないか、そんな程度の理由でしたね。

ところがご承知のように、高専では2年生くらいから非常に専門性の高い教育がスタートします。一生懸命ついていこうとはするのですが、授業がものすごく難しい。それに、学んでいるテーマそのものにも「どうも違うな…」という思いが大きくなっていました。機械工学への興味が次第に薄れていって、勉強に関しては、あまり…思い出したくない時代です(笑)。

しかも同級生には、本当に優秀な…天才と言ってもいいような学生もいます。試験前にほとんど勉強などしていないのに、いつもトップを取ってしまうようなクラスメートが何人かいました。「授業を聞いてたら分かるよ」と。彼らの多くは卒業後に大学に編入し、各分野でトップクラスの研究者になっています。そのくらい優秀な人材と机を並べていると、そうじゃない人にとっては辛い学生生活になります。

久留米高専では、ラグビー部でも活躍されていますね。


久留米高専ではラグビー部に入り、低学年時から活躍しましたが、大怪我をきっかけに今後の進路を考えるためにも、1年間の休学をしました。

入学後は寮生活をしていたのですが、夜な夜な先輩が「ラグビー部に入ってくれ」と勧誘に来て、根負けした形で入部しました。久留米高専のラグビー部は、全国高専大会で優勝経験もある強豪チームです。1年生で入部して厳しい練習に耐えながら、かなり一生懸命やっていました。2年生の時には、チームの司令塔とも言えるスタンドオフに抜擢もされています。

ですが、2年の時に怪我をして、3年の時にまた同じ場所を骨折してしまったんですね。「ダメだ、もうラグビーはできない」と分かって、かなり落ち込みました。いろいろ思い悩んで3年の修了時、つまり高校卒業と同等の資格が得られた段階で、休学することにしました。自分の進路そのものを見つめ直したかったのです。

ご自身の進路に対するその時のお考えをお聞かせ頂けますか。

当時は、いわゆる全共闘運動の影響が田舎にも広がって、ぼくらもその最後の世代といった感じ。世の中はどうあるべきか、みんなで議論するような雰囲気がありました。ぼく自身がこれから進むべき道として、今の日本の社会が直面している問題を解決し、貧しくて恵まれない人たちの役に立ちたいと思いました。それには弁護士になるのがいいだろうと考えました。

旧司法試験では、高卒の資格があれば一次試験を受験できました。そこで、まずは一次試験を受け、それにパスしたら本格的に勉強して本試験を受験しようと考えたのです。高専を休学して司法試験に備えて勉強し、一次試験には合格しました。

ところが勉強しているうちに、「法律では自分が解決したい問題を本質的に解決できないのでは」と思い至りました。法律は所詮道具であり、自分が求めているものとは違う、と。

どのような問題を解決したかったのでしょうか。

当時、何が一番大きな問題だと感じていたか。それは、日本の暮らしや人々の価値観があまりにも急激に変わりつつあったということです。ぼくが育った山の集落では、500年前から変わらない生活様式や価値観が受け継がれていました。ところが久留米という地方都市の高専で学ぶうちに、これからの日本が求めている価値観みたいなものが見えてきたのです。

例えば、受験戦争を勝ち抜いて良い会社に入り、立身出世を目指すという価値観。若者が地域社会を捨てて都会に出る、労働力を都市に流入させて経済成長を促進させよう…という考え方。このような新しい日本を支える価値観を、ぼく自身は受け入れられなかった。そういう生き方に意味があるとは思えなかったんですね。

そんな時に文学と出会って、「ああ、自分が求めようとしていたものはこれだったんだ」と。誰も教えてくれなかった答えを発見したような気持ちになりました。

当時、どのような文学作品に共感なさっていたのでしょうか。

戦後無頼派です。たまたま坂口安吾や太宰治の作品を読んでみると、当時の自分が胸の内に抱いていた違和感が、そのまま書かれていると感じました。これから進むべき道に悩み、もがいていた自分が彼らの作品を読んで救われたのです。

文学作品を書くことがこんなふうに人を救える仕事であるのなら、作家を目指そうと思いました。

坂口安吾は、東洋大学のインド哲学科出身の作家です。安吾の『堕落論』は、「価値観というけれど、そもそも価値なんてものはないんだよ」と語りかけてくる作品でした。インド思想の「梵我一如ぼんがいちにょ」にも通ずる真理が、とても刺激的かつ面白い筆致で書かれています。

そうか。自分が悩んでいたのは、ある価値観が間違っていると思ったり、新たな価値観をつくらなきゃと思い込んだりしていたからだ。絶対的に正しい価値など、そもそも存在しないんだ、と深く納得したのを覚えています。

進路については、馬渡先生にも相談されましたか?


中学校で英語を教えていた馬渡 正明先生は、幅広い教養の持ち主でもあった。安部氏の仕事場の書棚には、馬渡先生から譲り受けた数多くの歴史書などが並ぶ。

馬渡先生には、ぼく自身まだはっきりと考えがまとまっていない段階で会いにいきました。今まで高専で学びながら感じていた違和感や、これから自分が進もうとしている作家の道について、ありのままの想いを伝えました。すると先生は、「お前の気持ちは分かる」、「お前のやろうとしていることも分かる」と言って下さいました。

しかし、それまで作家になるための訓練や修業をしていた訳ではありません。勉強期間としてまず10年は必要だろうと思いました。そこで、復学して高専を卒業し、東京の役所に就職して図書館で働きながら作家修業をしようと考えました。古今東西、図書館で勉強して世に出た著作家は多いので、先達に倣おうと思ったのです。

そして1977年4月、21歳の時に東京都職員として大田区役所に就職しました。後に配属希望を出して区立下丸子図書館で働き始めました。

図書館勤務の傍らの作家修業は、どのようなものであったのでしょうか。

図書館で司書の仕事をしながら、文学の同人誌に入って、メンバーの皆さんと切磋琢磨しながらいろいろな習作を書き続けました。ですが、27歳くらいの時、二足のわらじに限界を感じていました。役所の仕事を辞めずにこのまま「小説の好きな公務員」でいるのか、それとも退路を断って24時間小説のことだけを考えるのか、という2つの選択肢を自分の心に突き付けていました。

それで29歳の時、妻に「2年間だけ時間をくれ」と頼み込み、区役所を退職しました。2年で満足のいく結果が出せなければ、作家の道はあきらめて就職する覚悟でした。

あんなに勉強したのは生涯で初めてだったと思います。朝起きて、子どもたちを保育園に送り、後はずっと習作を書き続け、夕ご飯を食べたらまた午前2時くらいまで、いろいろ小説に関する勉強をしました。今改めて思い返してみると、あの2年間は人生で一番幸せな時代であったかも知れません。

どのようなきっかけで作品が世に認められるに至ったのですか。

学生時代から書き継いでいた現代小説を1年ほどかけて完成させ、10社ほどの出版社に送ってみたのです。自信作でしたが、残念ながら読んでくれたのは2社だけ。こちらの2社とは今もお付き合いがあるのですが、当時は「新人のこのレベルの作品を本にすることはできません。まずはどこかの雑誌で新人賞を取って下さい。話はそれからです」といった趣旨の回答でした。

気持ちを切り換えて、いろいろな新人賞への応募にチャレンジしました。ところが、どの作品も一次予選くらいしか通らないのです。「オレは駄目なのかも…」と、精神的にかなり行き詰まってしまいました。

そんな時期に、久留米高専の同級生で文芸部の部長でもあった友人に相談したんです。彼とは上京後も気のおけない交友が続いていて、習作なども読んでくれていた間柄でした。彼曰く、「お前の現代小説は面白くない。だけど以前に書いた歴史小説の小編、あれはとても面白かったよ。そっちに路線変更してみたら?」

その助言が転機になりました。

旧来のご友人のアドバイスで歴史小説に転換されたのですね。


歴史小説への転換を助言した久留米高専同級生の森 敏彦氏は、現在、安部龍太郎事務所の代表を務めている。

それまでの私には、文学とは「現代と相わたるものだ」といった意識があり、歴史小説を書くことは志にもとるような、今にして思えば間違った思いが心のどこかにありました。そのため、自分が書いた作品でさえそれほど評価していませんでした。

しかし、役所を退職した時に妻と約束した「2年間」の期限が迫っていました。藁にもすがる思いでその短編を読み返してみると、これが面白いんです! 早速手を入れて「オール讀物新人賞」に応募しました。結果、私の小説が初めて最終選考まで残ったのです。受賞こそ逃しましたが、うれしかったです。この作品が幻のデビュー作とも言える『矢口の渡』で、後に出版した初期短編集『バサラ将軍』にも収録しました。

高専時代からの友人は、私の良き理解者であるとともに、優れた編集者でもあったのです。

高専で学ばれた経験が、作家活動にプラスになっているとお感じになることはありますか。

歴史小説を書く人で、技術が分かっている人は殆どいらっしゃいません。例えば1600年の関ヶ原の戦いの頃、我が国の鉄砲をつくる技術はどのくらいの水準であったのか。当時の火縄銃の構造がどうなっていて、弾丸や火薬などを含む材料のサプライチェーンはどうなっていたのか。弾の飛距離や威力、命中精度などの研究も殆どありません。

私の場合、機械工学の視点から、鉄砲であれば当時の技術・工具・材料でどのように鉄砲を製造していたのか、その技術的な背景をきちんと押さえるようにしています。技術の視点で時代をロジカルに見ることは、一つの歴史観であるだけでなく、「真実にどう迫るか」に関わってくると考えています。

このような視座に立つと、例えば戦国大名たちが考えていたことと、現代の企業経営者が直面している問題には共通点があり、時代は違っても人の想いはあまり変わらない、といった普遍性も見えてきます。

面白いですね。作家活動において、安部様はこれからも創作上の新たな試みに挑戦していかれるような印象を受けます。

私はプロの作家としてデビューした33歳の時、これからの自分の作家人生はどうあるべきかを考え、「36年計画」を立てました。最初の12年は基礎をつくる時期。次の12年で自分の作風をつくる。そして次の12年で作家として第一線に立てるようにしようと。すでにその36年は過ぎてしまいましたので、次の12年の計画を立てたところです。

ぼくは、歴史小説は「語りの文学」であるべきだと考えています。これまでも様々な作品を通して、物語の「語り方」を模索してきました。

例えば、西洋の小説のように、Aさんが登場する場面はAさん視点の三人称で書き、Bさんが登場するシーンではBさん視点の三人称で書く文学があります。このような語りだと、私の場合、どうしても自分の内面と登場人物の間に何か壁のようなものを感じてしまうんです。

これに対して、「万能の語り手」が全ての登場人物の心の動きを把握した上で、物語を始めから終わりまで語っていくスタイルで書く方法もあります。いわば、『源氏物語』の語り方です。ある時、自分でもびっくりしたのですが、書いている瞬間からどんどん次の発想が浮かんできました。歴史作家としての自分の資質を、思うままに作品に注ぎ込めるような手応えを感じ、「これだ」と直感しました。

この語り方の手法をこれから12年間、しっかり積み重ねて磨いていけば、歴史の中で人の物語を紡ぐ作家として、次の境地に到達出来る気がしています。

ありがとうございます。では最後に、現役の高専生や卒業生に向けて、先輩として一言お願いできますか。


「高専で学んだ一番大事なことは、“論理的に考える” 姿勢です。人の物語を伝える歴史の土台を、きちんと技術の側面からも把握したいと思っています」

かつてぼく自身がそうであったように、何か壁にぶつかっていたり、悩んでいたりする後輩の方もいらっしゃると思います。

役所を辞めるかどうかで悩んでいた28歳の頃、友人に誘われてインドを訪れたことがあります。ある日、町で物乞いの子どもたちに取り囲まれていたのですが、なぜか突然、「あ、人間はありのままで尊いんだ」と、雷に打たれたように感じたことがありました。

普通に考えれば、たくさんの子どもたちが物乞いをしながら生きていることは、悲しくて不幸なことだと思います。でもこの時は、人に優劣はないし、幸不幸もなく、誰もがありのままで尊いと思ったんですね。翻って自分が役所を辞められないのは、小説だけで食っていけなかったら不幸になると恐れているからだ。せっかく生まれてきたのだから、自分が信じる道を進んでみよう。そう思って、帰国後にすぐ辞表を出しました。

今の社会に適応するための価値観を持つことは必要だと思います。でも、一つの価値観だけに縛られていると、本当に大切なものが見えなくなることがあります。より広い目で自分を客観視して、自分の意思にもとづいて新しい選択をする心の自由を持つことで、見えてくるものがあると思っています。

本日は長時間にわたって貴重なお話を頂き、ありがとうございました。

谷口理事長が考える高専生の本質的な価値や潜在能力をご教示ください。


15歳の時点で学ぶことに意味を感じ、学んだことが社会に役立つ実感を得ます。実感を得ることで探求心が益々高まり、より広い様々なスキルを身に付けることが高専生の特長であり、価値といえます。

高専の新入生は15歳。つまりこの年齢から、社会に必要となる人財を育む高等教育機関が高専なのです。大学への進学が入学の目的となっている高校の普通科とは異なり、高専には数学や理科が得意な中学3年生が、自分で手がけてみたい技術領域をイメージして入学してきますから、学ぶこと自体に最初から意味を感じています。そして社会実装を念頭に置いた技術教育が施されていくうちに、自分の取り組んでいる勉強が社会に役立つ実感を得ることになり、それが益々勉強する意欲を掻き立てます。

このように専門性を極める意義を体感した高専の学生たちは、その経験を活かして専門領域以外にも手を延ばすスキルを身に付けていきます。近年、欧米で一般化しているJOB型の教育や就業が注目されるようになってきましたが、それは専門領域を極めれば他の業務はできなくても構わないというものではありません。
その本質は全く逆で、一つの専門を基礎からしっかりと極めた人財には、世の中の変化に柔軟に対応しながら専門性の幅を広げ、社会に役立つ価値を重層的に発揮するスキルが備わっているのです。これは、高専生の将来像そのものです。今後益々オープンイノベーションが社会を動かす時代になりますが、そこでは学んできた専門性をベースに、多くの人や様々な技術と出会う機会を利用し、革新的な成果を追い求めていきます。産業界に進み、あるいは大学に進学した高専生が活躍できるステージは益々広がっていると考えられるのです。最近になって本科を卒業する高専生の採用を拡大する大手企業が増えてきましたが、技術革新の最前線が高専生の価値に気づいたと言えるのではないでしょうか。


2024年5月、第5回ディープラーニングコンテスト2024の閉会後の記念写真(中央に谷口理事長)。本コンテストでは、高専で培ってきた「技術」と「ディープラーニング」を活用し、事業性を競い、起業を支援しています。このコンテストに代表されるよう、高専ではアントレプレナーシップ教育も基軸としています。

高専で最新の技術に触れ、社会に出てからさらに専門を極めた、あるいは専門性の幅を広げた高専の卒業生は、そのスキルをより高次で発揮することを求めるようになります。それはグローバル、もしくは起業というステージにも移行する選択に繋がっていきます。高専の卒業生は、企業のグローバル戦略や世界に通用する技術革新の先頭に立つ、もしくは新たなテクノロジーやビジネスモデルでスタートアップを図るアントレプレナーとなり、日本の産業界やアカデミアの世界で戦う競争力を生み出す存在になり得るのです。
このような高専生の「高い技術力」、「社会貢献へのモチベーション」、「自由な発想力」から生み出される高い起業力に文部科学省も期待し、アントレプレナーシップ教育に取り組む全ての国公私立高専を支援する「高等専門学校スタートアップ教育環境整備事業」を、2022年度第2次補正予算で開始しています。

日本の社会が抱える課題に、高専はどう関わっていくのでしょうか。


2025年2月、滋賀県立高専共創フォーラムでの挨拶。どのような公の場であっても多くの方々に、高専生を国の問題を治す「社会のお医者さん(Social Doctor)」と広報しています。

「失われた30年」という言葉に代表されるように、平成以降はそれまで世界のトップを歩んでいた日本の国際競争力が徐々に低迷していきました。その原因の一つに、産業界においてもアカデミアにおいても、世界で戦おうという意識が薄れてしまったことが考えられます。だからこそ、高専在学中に培われた課題解決力や社会実装力によってもたらされる理論のみではない、手を動かすことができるという競争力が益々求められるようになっています。高専の卒業生は、国家が抱える重要な問題を治し、健康な発展に導くことのできる、言わば「社会のお医者さん(Social Doctor)」だと私はことある毎に広報しています。

さらに日本には本格的な少子化の波が押し寄せ、内需の拡大は見込めなくなりました。この少子化は日本を支えていく人財の減少にも直結します。事実、近年の1学年あたりの人口は大幅に減少。1960年頃には250万人を超え、その後の進学や就業で高度経済成長期に活躍した中学卒業者の数が、現在では100万人前後になり、いずれ70万人台にまで落ち込むことが確実視されています。日本がこれからかつてのような存在感を世界で復活させるには、1人が3倍のパフォーマンスを発揮する必要があると言っても過言ではありません。このような教育の曲がり角で、卒業後に「社会のお医者さん」となって日本の競争力を回復させる高専生の育成をしっかり行わないと、日本の産業競争力は今以上に揺らぐことになってしまいます。


神山まるごと高専の校舎「OFFICE」の様子。同校は、アントレプレナーシップ(起業家精神)の育成に力を入れており、卒業生の4割が起業することを目標に掲げています。2023年4月、徳島県名西郡(みょうざいぐん)神山町に全国58番目の高専として開校しました。

現実に地方では小中学校の閉校が各地で見られます。入学志願者が減少している大学も少なくありません。そうした波に高専が巻き込まれることは現段階ではありません。それどころか2023年に徳島県に神山まるごと高専が開校し、2028年には滋賀県に滋賀県立高専が新たに開校する予定です。今の時代に日本の社会が高専教育に期待している証左だと言えます。それでも子供の数は益々減っていきますから、高専も影響を受けざるを得ない時期が到来するでしょう。
国立高専は元より、公立・私立の高専とも密な協力関係にある高専機構としては、1学年50万人という時代になろうとも、現在の全ての高専を合わせた1学年1万人という学生の数は守りたいと思います。人口減少に逆らう事が出来ず、それが無理となっても、58という現在の国内の高専の数(滋賀県立高専の開校により59校)は絶対に減らしてはならないと考えます。もしも、高専の志願者数が減るような事態になったとしても、学校の数も教員の数も削減しなければならないというのは、消極的な発想で、1クラスあたりの学生数のみを減らせば良いのです。一方で、教員志願者の数が減っていく事も想定されますが、そこはオンラインによる高専間をまたいだ同時授業や、録画された映像による補完で十分に対応が可能です。
現在の世界の1クラスの標準は20人。日本の学校の学級人数はまだ減らせます。現在の高専の40人学級が20人学級2クラスになれば教育の中身は確実に濃くなり、定評のある高専の質の高い指導は、一人ひとりの学生に一層深く行き渡ることになります。少子化という逆境を逆手に取り、少人数学級を導入すれば高専教育のパフォーマンスが高まるのは間違いありません。今以上により世の中の役に立つ人財に育んでいく環境を実現できるでしょう。

高専のグローバル化についての構想をお聞かせください。


2022年11月高等専門学校制度創設60周年記念式典が行われ、式辞で谷口理事長から「高専」及び国際語にもなった「KOSEN」が紹介されました。

2022年11月高等専門学校制度創設60周年記念式典の翌日には、国際学長フォーラムが行われ、谷口理事長はじめ、各国の政府機関、大学、高専、ポリテク等の代表間で、新たな時代に求められるエンジニア育成の在り方について、活発な討議がなされました。

日本の高専教育制度を本格的に導入したタイ王国初の高専(KOSEN-KMITL)が2019年5月に、2校目の高専(KOSEN KMUTT)が2020年6月に、それぞれ開校しました。タイ以外にも、モンゴルに3高専を設置し、ベトナムではベトナム商工省が管轄する3つの工業短期大学等の教育高度化支援を行い、高専教育システムの導入に向けて準備中のエジプトからは高専の教育現場視察やカリキュラムに関する意見交換等を行うために2025年の1月に視察団が来日しました。また、全国の高専各校は多くの国々から留学生を受け入れています。“KOSEN”は、世界各地で社会を牽引する高等教育制度であるという認識が広がっているのです。
こうしたグローバル展開の推進により、2024年3月時点で高専機構が学術交流協定を締結した海外教育研究機関は448機関(各国立高専において延べ417機関、高専機構本部において31機関)に達しています。こうした高専のグローバル展開は各国への貢献はもちろんのこと、世界のテクノロジー開発における日本のプレゼンスを高め、日本の技術を世界に波及させる足がかりにもなるでしょう。

それ以上に高専のグローバル推進を通して重要視しているのは、日本の高専生の海外との交流です。高専の卒業生がグローバルな環境で頭角を表すような活躍を見せていくための国際コミュニケーション能力を磨くことを目的とする、留学や海外インターンシップを推奨しています。現在は年間で約4000〜5000人の学生を海外に送り出していますが、その数をもっと増やしていく考えです。
2019年には、グローバルに活躍できる技術者を育てるため、「グローバルエンジニア育成事業」を開始しました。この事業では、高専各校が取り組む学生の国際的なコミュニケーション能力や、海外で積極的に活動する意欲の向上を支援しています。いずれも、高専卒業生が日本の国際競争力に寄与する存在へと育むための一環であることに間違いありません。

また、近年は国籍や性別を問わず多様性を尊重する社会に向かっていますが、高専機構は2011年に早くも「ダイバーシティ宣言」をして、2024年には「ダイバーシティ・エクイティ&インクルージョン(DE&I)推進宣言」を策定し、多様な一人ひとりの学生が、自他の違いを尊重し、相互理解を深められる風土を醸成してきました。その成果としては、本科の女性学生比率が24.6%にまで増加したことなどが挙げられます。

谷口理事長が自ら課しておられる役割やミッションをご説明いただけますでしょうか。


最初の更新船となった「大島丸」。高専ならではの理由・目的によって商船高専5校(鳥羽、広島、弓削、大島、富山)の練習船を新造しています。

高専機構は時代に即した高専教育の最適解を考え、学習指導要領にとらわれない独自のカリキュラム作りや、研究活動の推進をサポートしています。そうした積極的な取り組みには年間予算で充当される額以上の活動費が不可欠になります。高専機構は、高専各校にアグレッシブな教育を求めるだけではなく、外部予算の獲得に尽力することでも各校を支援しなければなりません。実際に私は、文部科学省はもちろん有力政治家や産業界に対しても、積極的に訴求する場を設けて、研究予算や施設予算について数々の要望を申し上げてきました。その成果としては、幾つかの外部予算獲得につながっています。

ただ、全ての予算要求が通る訳ではなく、多くは希望通りとはなりません。高専だから必要、高専にこそ必要という理由を明確に訴求していく必要があります。そうした高専ならではの予算獲得の事例に、商船高専5校(鳥羽、広島、弓削、大島の商船高専4校に加え富山高専商船科を含む)の練習船を新造して更新する予算を獲得できたことが挙げられます。練習船を航海や機関に関する実習の場としてだけではなく、災害時には被災地へ飲料水や食糧を供給する役目(かつて同様な実績があります)や、携帯電話の移動基地局としての活用を御理解いただいた事が認められたのです。

先にも述べましたが、高専教育には日本の国際競争力を再生に導く可能性があります。国が用意したファンドや研究予算のみならず、産業界からの支援にも期待しています。中には高専卒業生が入社後に大活躍をして経営に大きく貢献したので寄付を申し出ていただいた企業もあります。これからは益々外部に対して、時代に先駆けて独自に取り組む高専教育の価値を積極的にPRし、研究費や設備費を外部から提供していただくことで教育現場の努力を最大限バックアップしていきたいと考えています。

高専の在校生と卒業生への応援メッセージをお願いします。


何事にも挑戦するマインドが「高専スピリッツ」です。高専での中身の濃い5年間を全うされたことに誇りを持って世の中に貢献していただきたいと望みます。

在校生の方には、自分の好きな技術分野を極めて、その成果を遠慮することなく大いに発信して欲しいと考えています。各種コンテストや地域産業との連携、海外渡航交流など、様々な自己表現の場があることは皆さんもご承知でしょうが、決して一部の限られた学生さんのために用意されている機会ではありません。どの学生さんでもしっかりと準備して臨めば、そうした場面で主役になれるチャンスがあるはずです。さらに言えば、コンテストに勝ったらそれがゴールではなく、そこからが将来に大きく飛躍するスタートとなるはずです。

産業界でご活躍されている高専の卒業生の方々には、カリキュラムの面でもすこぶる中身の濃い5年間を全うされたことに誇りを持って、世の中に貢献していただきたいと望みます。最終学歴が大学や大学院となった卒業生の方であっても、高専で培った学びの体験は現在の実力の礎になっているはずです。学歴とは最終学歴を表すものではなく、学習歴です。高専の5年間の学習歴を是非とも多くの人にアピールしていただきたいと考えています。

皆さんのご活躍が、今後の日本の発展に大きな影響を及ぼすのは間違いありません。産業界の発展への貢献のみならず、日本の未来を担う子供たちが高専に入学して優れた研究者やエンジニアへと育ち、同時に幸せな人生を獲得するロールモデルになっていただくことを期待してやみません。

本日はお忙しい中、長時間に亘りご協力していただき、ありがとうございました。

釧路高専の概要についてご紹介下さい。


釧路工業高等専門学校 正門前

北海道釧路市の西方、たんちょう釧路空港に近い場所に立地する釧路高専は、国立高専4期校として昭和40年に開校。当初は機械工学、電気工学、建築の各学科があり、その後に電子工学と情報工学が加わり、しばらくは5学科体制で高い専門性を持った人材の育成を進めてきました。
ところが時は平成に移り、企業の製品開発や設計において高度化や複合化、融合化が進んだことで、学生時代に学んだ分野の視点だけでは第一線のものづくりの現場で実力が上手く発揮できないという場面が、社会と直結した高等教育機関において問題視されるようになりました。
本校にも、社会に早期に役立つ実践的な技術と創造性を兼ね備えた卒業生を送り出す使命があります。そこで5学科体制を一旦リセットし、抜本的な改組を行うことになったのです。

当時の学校関係者の間では学科の再編案で侃侃諤諤の議論があったそうですが、結果として平成28年に全学生が入学初年度を一般教養科目と専門基礎科目の授業を受け、2年生進学時に学生の全員が広い視野で技術を学ぶことを指向して設置した創造工学科に進むという学科の改組が行われました。
ただ、創造工学科が広くとも浅い知識しか身につけられない学科に陥ってはなりません。しっかりとした専門性が身につくことを担保した上で他の分野の基礎を学べる、そんな工夫が必要です。
そうした配慮から、創造工学科の中に3つのコースを設定しました。情報工学分野と機械工学分野にわたるスマートメカニクスコース、電気工学分野と電子工学分野にわたるエレクトロニクスコース、そして建築デザインコースです。
前2コースの学生は本科の4年間、所属分野で専門性を獲得しつつ、コース内のもう一方の分野についても学び、さらに学科共通科目も受講することで、社会の期待に即した人材となって巣立っていくことになります。
建築デザインコースの学生は、建築設計を軸に街づくりまで視野に収める学びで、学生の指向に応じてゼネコン等に加え鉄道会社など都市開発を担う企業への進路が開けています。

創造工学科を卒業した学生は、開始年度からみてまだまだ少数ですが、開校から実践的な技術を持った人材の輩出を企図して様々な教育施策に取り組んできた本校は、進路先から高い評価を頂いています。
多くの卒業生が活躍する釧路市役所からは公務員試験の受験資格において大学卒業者と同じ扱いを受けており、北海道大学からは北海道内の4高専を対象に約20名の編入推薦枠が認められています。

釧路高専の特徴的な取り組みを教えて下さい。


5学科を3コースに再編し、専門性を担保しつつ企業から求められる高度化や複合化に対応、また、5分野の混合チームで地域課題に取り組む複合融合演習によって、生きた社会実装を体現しています。

創造工学科を設置する背景となった、専門分野の隣接領域にも視野を広げて社会の実情に対応できる人材を育むというコンセプトを推進する取り組みの一つに、複合融合演習があります。
これは、5分野混合チームが現場目線で地域課題の本質を理解し、アイデア創出から試作までを行う、釧路高専独自の社会実装型フィールドワークです。
先般は、防災というテーマで段ボールベッドを開発しました。釧路が面する十勝沖は地震の発生が多いこともあって釧路地域の住民は防災意識が高く、避難先に必要な段ボールベッドの開発は地域ニーズに即したものでした。
当初、学生たちは寝心地の良さを追求。しかし使用する行政側と課題の本質に向けた協議を進めていく中で、平時における収納のしやすさや非常時の組み立てのしやすさも重要であることが判明。学生たちは改良を進め、使用する側の要望に対して十分に応えられるプロトタイプにまで漕ぎ着くことができました。

また、学生たちの日々の学習意欲をモチベートする毎年のイベントとして、4年生を対象にキャリア講演会を行なっています。
その内容は、外部講師に、高専での学びが社会で役立つことを講演してもらうものとなっています。
前回は堀江貴文氏に講演して頂きました。実は、堀江さんが設立した日本初のロケット開発会社であるインターステラテクノロジズ株式会社の本拠地は、釧路市と同じ道東の大樹町(たいきちょう)にあり、そこに本校の卒業生が入社しています。
その卒業生の優秀さを認めた堀江さんが、講師を買って出て頂きました。
講演会当日に堀江さんが語られた「高専生の皆さんが学ばれていることは、すべてロケット開発に必要な技術です」という言葉に、拝聴した学生たちは目を輝かせていました。

地域社会や地域産業、他の高専との連携についてお聞かせ下さい。


日本で唯一民間企業でロケットの打ち上げに成功したインターステラテクノロジズ株式会社やロケットランチャーシステムを担当する地元企業の釧路製作所主催のロケットランチャー製作プロジェクトへの参加をきっかけにロケットランチャープロジェクト部が発足しました。ロケット開発プロジェクトに学生が関与できる本格的なクラブです。

堀江さんのインターステラテクノロジズ株式会社に技術協力している、株式会社釧路製作所という企業があります。本来は橋梁工事が専門ですが、打ち上げプロジェクトにはロケットの発射台設置を精密に調整する技術で参加し、出資もされています。
この釧路製作所には本校からの卒業生が就職していますが、在校生の課外活動にも技術面での協力を頂いており、特にロケットランチャー(※)プロジェクト部が大変お世話になっています。

釧路市に本社を置く食品機械メーカーの株式会社ニッコーにはインターンシップで協力を頂いてますし、卒業生の就職先でも人気です。
同社はロボットシステムの技術に長け、ものづくり日本大賞やロボット大賞などの受賞歴を誇っています。
そもそもは地場の水産加工品産業が海外の加工業者に価格競争で劣勢を強いられ、熟練の加工職人が高齢となり後継者が足りないといった釧路を中心とする道東エリアの重要課題に、設備の自動化やロボティクスで応えていくことによって成長された企業です。
現在は水産業の他にも農業や酪農、観光業、飲食店などあらゆる分野がロボット化する時代を見据え、DX化の推進や省力化を追求されています。
そんな同社において、就職した本校卒業生たちは高専時代に養った技術や思考力を存分に発揮しているようです。

株式会社ニッコーとの共同教育を活かし、創造工学科機械工学分野を中心にロボット技術に注力している本校は、国立高専機構の先端技術教育推進策の一つであるCOMPASS 5.0ロボット分野に、協力校として令和4年度より参画することになりました。
ロボット分野のプロデューサー的人材育成を柱とする教育パッケージを作成し、全国の高専に展開していくプロジェクトが進んでいます。

※小型ロケットの発射装置

釧路高専からはどのような人材が輩出されていますか。

実は、先の株式会社ニッコーの佐藤一雄社長は釧路高専の卒業生です。
同社の、技術で社会問題の解決に立ち向かうという社風は、まさに高専教育と理念が一致していますが、佐藤社長が釧路高専時代に培った「人に役立つものづくりのマインド」を、今も具現化されているといっても過言ではないでしょう。

また、セブンイレブンやイトーヨーカ堂を擁するセブン&アイグループの金融機関であるセブン銀行の松橋正明社長も、釧路高専の出身です。
高専卒業者と大手金融機関の経営者では、イメージが結びつかないかもしれませんが、松橋社長は釧路高専卒業後にNECグループに入社し、図書館の蔵書検索の開発などを経てアイワイバンク(現セブン銀行)に転職されたという経緯です。
その後、流通業の進化の鍵となったATMの企画開発での実績が認められて役員となり、社長に就任されました。優れたエンジニアは経営トップにも立てるという好例ではないでしょうか。

大塚先生のご経歴を簡単に振り返って頂けますか。


講師から長い期間高専で学生を見てきたことから、高専生の能力の高さ、素直さ、勤勉さを充分理解しています。その力を社会や人の役に立ち、喜んでもらおうとする「志」をもって活躍をしてほしいと期待しています。

私も高専で学んだ一人です。卒業したのは東京高専の電子工学科で、東京工業大学に編入学し、工学部電気・電子工学科を卒業後に同大学の大学院理工学研究科博士課程を修了。工学部の助手を経て東京高専の講師に移籍しました。
それから同高専で助教授、教授、副校長を担い、令和4年に現在の釧路高専校長に着任しました。
専門は電気・電子工学で、東工大では高温超伝導薄膜の作成やアナログLSIの自動設計CADの開発、動画圧縮符号・復号用LSIの開発などに関する研究を行い、東京高専の研究者・指導担当としては指紋認証や虹彩認証、AI画像認識などに取り組んでいました。

振り返ってみますと、私の経歴は人とのご縁が大きな意味を持っているように思えます。
高専に転職したのは、高専時代の恩師に勧められたのがきっかけですし、釧路高専とも以前から縁がありました。
3代前の釧路高専校長である岸浪建史先生とは、今から10年前に高専の会議を通して知り合い、釧路高専で実践されている地域と一緒に学生を育てる活動を先生から直にお聞きし、薫陶を受けていたのです。

高専の在校生及び卒業生へのメッセージをお願いします。

高専は大学受験に労力を割く必要が無く、時間をたっぷり使って授業では頭を使って考えながら知識を蓄え、実験や実習では手を動かして結果を目で確かめることによる経験を得ることができます。
この知識と経験が合わさって、実践的に役立つ「知恵」を養えることができると私は考えます。
就職して、企業の製品開発上の課題や、それを取り巻く社会の難題に突き当たった時に、突破力をもたらすのはこの「知恵」に他なりません。
高専で学ぶ在校生は知恵という突破力を獲得することができ、卒業された皆さんには、すでに備わっているはずです。

それに加えて必要なのは、努力を厭わず人に役立ちたい、喜んでもらいたいという、「 志 」です。
クルマに例えるなら、知識や技術はボディやタイヤ。「 志 」はエンジンです。成長を促し、壁を乗り越える力となる「 志 」を確かに持って、輝ける未来を歩んで下さい。

本日はお忙しい中、長時間に亘りご協力頂き、ありがとうございました。

本意とは異なる進路でも、前向きさを失わなければ道は開ける。

中学校から久留米高専にどのような想いで進学されたのですか。


2025年1月に母校である久留米高専で記念講演をされた際の資料をもとに高専時代の思い出をお話頂きました。

一般的に高専を志望する中学生は、数学や理科が得意であるとか、ものづくりや技術への関心が高いといった特徴を持っています。ところが私はそのような中学生ではありませんでした。5教科の中では国語と英語が大好きであり、得意でもありました。その次が社会。数学と理科は苦手だったのです。当然の如く、当時の私は普通高校に進学した後に大学は文系の学部に行くつもりでした。

そんな私が希望に反して高専に進学したのは、家族の経済的な理由からです。
私の実家は福岡県飯塚市で様々な商材を扱う小間物の卸業を経営していたのですが、私の幼少期に2度にわたって大規模な火事が発生。そのために経営が厳しくなり、私の家の経済状況は逼迫してしまいました。それで中学3年時に行われた進学に関する三者面談で父が経済事情を話したところ、担任の先生は国立の久留米高専への進学を親身になって勧めてくれたのです。授業料や寮費が安く、奨学金の取得も可能で、大学に行かなくても就職に困らないといったのが推奨理由でした。親を気遣った私は、何とか高専に入学したいと思いました。金属工学科を受験したのは、倍率が最も低かったから。金属工学という私の現在の専門の原点は、やむなくの選択だったのです。

久留米高専入学後、現在に導く向学心はどう形成されたのですか。


英語が得意であったことから、英語弁論大会に出場され、高専2年・3年時には、九州地区優勝。更に3年時には写真の「朝日新聞主催の全日本高等学校英語弁論大会」で、全国3位に入賞されました。(中央右が熊井先生)

まず、久留米高専に入学して痛感したのは、同級生たちの理数系の能力の高さです。高度な数学の授業に難なくついていったり、正確な設計図面を仕上げたり、同級生たちは久留米高専での勉強が楽しそうでした。私はと言えば、理数系の授業について行くのに必死。何とか授業で取り残されないように努力していましたが、最初の半年はいつ辞めようかとばかり考えていました。
そんな私の心の拠り所だったのは、1年生から3年生の間では少なくなかった一般科目でした。特に英語の授業には熱が入りました。

転機が訪れたのは2年生に進級した時です。
フルブライト奨学金で米国ウィスコンシン大学に留学していた永田 元義(ながた もとよし)先生が久留米高専に赴任。私は英語の弁論術を特別にご指南頂くようになりました。永田先生が私を集中指導されようとしたのは、私の英語の発音が良かったからだそうです。実は中学の時の英語の授業で、当時の先生が英語の習得には正確な発音が大事と考えて自ら教科書の英文を読まず、いつも録音されたネイティブスピーカーの英語を聞かせてくれました。そのお陰で私の発音レベルが向上したのだと思います。
そうして永田先生の特訓を受けた私は、九州地区高専英語弁論大会に2年生の時と3年生の時に出場し、いずれも優勝しました。それだけでは終わりません。3年生の後半に出場した朝日新聞が主催する全日本高等学校英語弁論大会では、全国3位を獲得。当時としては理系の高専生が全国レベルの英語コンテストで入賞するのは画期的だったことから、新聞にも取り上げられました。私の高専下級生時代は、英語力を磨くことによって心の張り合いを保っていたのです。

4年生に進級後は、専門領域を深める授業が大半を占めるようになります。英語で「学ぶ楽しさ」を知った私は、いつしか金属工学への興味も高まっていました。高専は実験や実習が多く、論理を学ぶだけではなく目で見て手で触って確かめるダイナミックな学習を行います。特に金属工学は、物質の断面の模様や組織構造の観察など、数式とは異なる判断要素が多く、こうした点がもしかしたら私に向いていたのかもしれません。

私が高専の本科卒業後も、専門を極めたいと思ったきっかけは、神奈川県横浜市にある東芝のタービン工場での実習でした。
発電所タービンのブレードの金属疲労度合いを確かめるべく破壊試験や組織観察を行なったのですが、初めて電子顕微鏡を使用したり、撮影した写真の現像を学んだりと、私にとって産業界のリアルな技術現場は刺激的でした。そして東芝の担当の方が、実習に真剣に向き合っていた私に「卒業したらウチに来ないか」と言ってくれたのです。とても光栄で嬉しいオファーでしたが、私の将来に向けての指針はその時にはっきりしました。
口をついて出たのは「大学に編入しようと思います」という返事だったのです。

学校中の先生たちが私の編入試験合格を後押し。

大学の編入試験合格は現実的な目標になったのですか。

試験までに残された1年と少しの間で、東京工業大学を第一志望に受験勉強を開始しました。実家の商売が新たな卸先を得て挽回したことも大きかったですね。東京工業大学を選んだのは、金属工学の学科があり、編入枠が設けられていたからです。当時は東京大学や九州大学にも同じ分野の学科はありましたが、編入試験は実施されていませんでした。また、現在多くの高専本科卒業生を受け入れている豊橋技術科学大学や長岡技術科学大学は設立前でした。
ただ、大学に進学することは決めましたが、進路は東京工業大学の工学部 金属工学科の一択ではありません。受からなければ、得意の英語を伸ばせる外国語系の大学に一般入試で入ることも考えていました。しかし、それから卒業するまでの私は、予想もしなかった期待を背負うことになりました。多くの恩師たちから、いくら感謝しても仕切れないバックアップを受けたのです。

通常授業とは別の指導を受けられたのでしょうか。


当時、高専からの編入枠が設けられていた「東京工業大学」を目指すことになり、編入学にあたっても多くの先生方から多大な支援を受けられました。

私が入学した1972年当時は、高専の本科卒業生が大学の3年次に編入学する例は今ほど多くありませんでした。大学自体も、高専生の研究者やエンジニア候補者としての高い価値が認知されていなかったようです。
しかし、和栗 明(わくり あきら)校長先生以下、久留米高専の教員の皆さんには在校生たちの未来の可能性を引き出し、卒業生を研究開発の最前線で活躍出来る人材に育もうとする熱意に溢れていました。ですから、東京工業大学への編入学を目指すことを決めた私にも、恩師たちから尋常ではない手厚いサポートがあったのです。高専創成期の当時には、どの高専にも高等教育機関としての可能性を開こうとする前向きさが息づいていたのかもしれません。

まず、試験科目の中にドイツ語があったことから、ドイツ語の教員である白石 敬(しらいし たかし)先生がマンツーマンで試験対策を施して頂きました。数学の松塚 春海(まつづか はるみ)先生は、勉強時間を確保出来るはずだからと、かつての教え子である病院長夫人に話を通して頂き、下宿と食事を提供してもらうことになりました。その対価は院長のお子さんの家庭教師料のみであり、私はアルバイトに時間を取られることなく受験勉強に集中できたのです。非鉄精錬が専門の重松 浩氣(しげまつ こうき)先生からは「私が君の卒論の担当教授になる。編入試験が終わるまで、卒論より試験勉強を優先して構わない」とまで言って頂けました。そして夏場の暑い季節に校内で唯一冷房の効いていたX線室を受験勉強目的に開放して下さったのです。その他にも苦労して集めた編入試験の過去問の中には、高専つながりの先輩である神戸市立高専出身の益 一哉前東京工業大学学長からのものも混じっていました。
こうした恩師や先輩からの強力なバックアップのお陰で、私は無事に東京工業大学工学部の編入試験に合格しました。そして、合格が決まった後に試験担当の先生からお聞きしたのですが、和栗 明校長に書いて頂いた私の推薦状の中身がとんでもないことが判明しました。「熊井くんを合格させないと、御校に殴り込むぞ」くらいの圧力だったのです。
今も恩師たちから頂いた熱い応援を思い起こすたびに、感謝の念が湧き起こります。

努力は誰かが必ず見ていてくれる。

高専をご卒業後のキャリアをご紹介下さい。


液体アルミニウムが冷える過程で、固相(結晶)が形成され、最初の結晶が周囲の液体から樹枝状に成長したアルミニウムのデンドライト(樹枝状晶)。この大きさは非常に珍しい。

私は久留米高専を受験する際に消去法的に金属工学を選びました。しかし、金属に関する基礎的な知識をしっかりと習得して東京工業大学に入り、そこでは非鉄金属を専門領域に選びました。それから研究対象をアルミニウムに絞り、大学院を経て同校の教員に就職しています。
1987年からの2年間はケンブリッジ大学の客員研究員として渡英し、帰国後は1995年に東京工業大学助教授、2005年に同校教授に就いています。表彰に関しては数多く頂き、特許も取得しています。近年はCO2削減に寄与するアルミニウムの新たなリサイクル技術の確立を目指しており、2021年からは主催するグループの研究テーマが国家プロジェクトに認められ、NEDO(新エネルギー・産業技術開発機構)の実用化研究「資源循環型社会構築に向けたアルミニウム資源のアップグレードサイクル技術開発」として採択されています。


しかしこれまでの研究キャリアが順風満帆だったとは言えません。
一つの研究を進める中で行き詰まることは多いですし、社会情勢に応じて研究テーマの大幅な変更を余儀なくされたこともしばしばあります。そうした壁に突き当たった際には、高専時代を思い起こします。不本意で始めた勉強も好きになろうと努力しているうちに楽しくなった…。高い目標を目指して頑張っていると多くの人から自然に応援してもらえた…。といった高専時代の体験が、私を再起させてくれるのです。

高専生活の密な人間関係は将来の財産になります。

高専生・高専卒業生に対する応援メッセージをお願いします。


熊井先生は、個人の研究成果に留まらず、学術分野全体の発展や次世代の研究者育成に情熱を傾けておられます。これには、高専時代の恩師、友人からだけでなく、高専での生活そのものが強く影響をしています。

高専教育の最大の特徴は、実験や実習を通じてモノに触れて学んでいくことだと思います。頭で理解するだけではなく、目で見て、手を動かして、真理に近づけるのです。そして、その結果や成果をレポートにまとめるところまで行います。この一連のプロセスは、普通の高校から大学に進めば、学部の3年生までは経験できません。本科の5年間を卒業して就職した方は十分に即戦力ですし、大学3年時に編入したのならば、その時点で学部から上がってきた同級生と大きく差がついています。
この実体験で磨かれたスキルや知識には、是非自信を持って頂きたいと思います。私は企業との共同研究を数多く取り行ってきましたが、企業の技術リーダーの方々が口々におっしゃるのは、「高専出身の新人は、仕事の取り掛かりが早い」という高い評価です。高専での中身の濃い勉強は大変だったでしょう。でも、それだけに培った価値は高いのです。

それにもう一つ、5年間を一つの専門クラスで過ごしてきたことで、多くの友人に恵まれていることと思います。熱い指導を施された恩師の方々や、各種コンテストを目指して共に汗を流したり、寮生活でお互いを深く知ったりした仲間たちも、かけがえのない存在です。高専生活の5年間は、未来の自分をしっかりと築いてくれる礎になっているでしょう。

本日は長時間にわたって貴重なお話を頂き、ありがとうございました。

海外に広がる「KOSEN」 天皇陛下がモンゴルの高専モデル校訪問


2022年11月の国際学長フォーラムで交流を深める国立高専機構理事長とモンゴルの高専関係者ら

 天皇皇后両陛下は2025年7月6日~13日、モンゴルを公式訪問されました。9日には首都ウランバートルで、日本の高等専門学校をモデルとした私立学校「モンゴルコーセン技術カレッジ」を視察されました。中学卒業後の5年間で専門知識を身に付けた技術者を育成するという日本の「高専」教育は海外でも高く評価され、アジアで導入の動きがあります。天皇陛下はモンゴルの学生たちが創作したロボットや計測機器をご覧になり、「頑張ってください」とお言葉をお掛けになりました。

 高専の教育システムは、自国のモノづくりを担うエンジニアを育てたいというニーズから近年、アジアで広がりつつあり、日本の高専関係者も日本型高等専門学校教育制度「KOSEN」として推進してきました。タイでは2019年以降に2校(KOSEN-KMITL、KOSEN KMUTT)が開校。日本の高専教員が現地教員の研修やサポートを行っており、ベトナムでも宇部工業高等専門学校などの高専と提携した教育カリキュラムが導入されています。
 モンゴルでは、日本の高専で学んだモンゴル人留学生と高専関係者らが協力し、2014年に3校が開校しました。苫小牧工業高等専門学校など日本の高専からは機械工学やコンピューター工学の教員を派遣し、モンゴルの学生は日本で高専生によるディープラーニングコンテスト(DCON)や就業体験に参加しています。天皇陛下が訪問されたモンゴルコーセン技術カレッジでは、電気電子工学や機械工学など5つの学科で約350人が学んでおり、卒業生の約4割が日本で就職しています。
 在位中の天皇陛下がモンゴルを訪問されるのは初めて。天皇陛下は8日間の日程で、国賓として歓迎行事やスポーツの祭典にご出席されました。
モンゴルコーセン技術カレッジには9日に訪問され、教室を視察。モンゴルでの「ロボコン」大会出場など学生の日頃の活動について教員から説明をお聞きになり、学生たちと和やかに懇談されました。

安部様は福岡県のご出身とお聞きしています。


近代化から取り残された農村で生まれ育ちましたが、のちに新しい日本の価値観とのギャップを受け入れられず悩みました。この違和感が作家を目指す要因となっています。

ぼくは1955年に八女やめ郡の黒木町(現・八女市)という山間部の集落に生まれました。当時は黒木町に限らず、日本全国の山間部ではまだ前近代的な農業が営まれていた時代です。私が小学校に入るくらいまでは、千歯せんばや、唐箕とうみなど、室町時代に開発された農機具をそのまま使っているような環境でした。近代化から取り残された農村として、500年ほど停滞していたとも言えるでしょう。

うちの母方は橋本家といい、大阪・河内の豪族だった楠木正成の一門の末裔です。南北朝の対立後、後醍醐天皇の孫の良成親王が南朝の旗印として九州に派遣された際、太刀持ちとして随行したのが橋本家でした。それからおよそ600年にわたって八女の山間部に隠れ潜んでいた、いわば山岳ゲリラの末裔です。これに対して父方の安部家は、橋本家のすぐ近くに150年ほど居を構えていた農家でした。父は非常に優しい人で、母はどこか一本筋の通った性格の女性でした。

このような旧家に生まれ、私は祖父母から、夜になると囲炉裏端で集落の言い伝えを語り聞かされて育ちました。おかげで後年、「太平記」などの室町時代の軍記物を読むと、「ああ、ばぁちゃんが話してたなぁ」と聞き覚えのある言葉やエピソードが思い起こされ、抵抗なく理解することができました。

安部様はどのような経緯で高専に進学されたのでしょうか。

率直に申し上げれば、中学校の成績は非常に良かったのだけれど、大学まで行かせてもらう経済力が安部家になかったからです。当時の同世代の高専生の多くが、そういった理由で高専に進学していたように思います。

直接的には、中学時代にお世話になった担任の先生に高専への進学を勧めて頂きました。学費の心配をせずに大学と同等の高度な教育が受けられるし、高専は就職率100%だと。しかも、誰もが知るような大企業や自治体などに就職出来るので、将来の可能性も拓けるよと。

この先生が、以来50年近くにわたって親しくお付き合いを頂くことになる、馬渡まわたり正明先生です。久留米高専を受験した際も、久留米に近い先生のご自宅に前泊させて頂いて試験に臨んでいます。そして高専に進学してからは、何か悩みがあると先生のもとに通って、いろいろ相談をするようになりました。

久留米高専では機械工学科を選ばれていますが、学生生活はいかがでしたか?

当時は特に深い考えがあって機械工学を選んだ訳ではありません。中学生ながら数学が得意であったし、機械工学科だけ2クラスあったので合格しやすいんじゃないか、そんな程度の理由でしたね。

ところがご承知のように、高専では2年生くらいから非常に専門性の高い教育がスタートします。一生懸命ついていこうとはするのですが、授業がものすごく難しい。それに、学んでいるテーマそのものにも「どうも違うな…」という思いが大きくなっていました。機械工学への興味が次第に薄れていって、勉強に関しては、あまり…思い出したくない時代です(笑)。

しかも同級生には、本当に優秀な…天才と言ってもいいような学生もいます。試験前にほとんど勉強などしていないのに、いつもトップを取ってしまうようなクラスメートが何人かいました。「授業を聞いてたら分かるよ」と。彼らの多くは卒業後に大学に編入し、各分野でトップクラスの研究者になっています。そのくらい優秀な人材と机を並べていると、そうじゃない人にとっては辛い学生生活になります。

久留米高専では、ラグビー部でも活躍されていますね。


久留米高専ではラグビー部に入り、低学年時から活躍しましたが、大怪我をきっかけに今後の進路を考えるためにも、1年間の休学をしました。

入学後は寮生活をしていたのですが、夜な夜な先輩が「ラグビー部に入ってくれ」と勧誘に来て、根負けした形で入部しました。久留米高専のラグビー部は、全国高専大会で優勝経験もある強豪チームです。1年生で入部して厳しい練習に耐えながら、かなり一生懸命やっていました。2年生の時には、チームの司令塔とも言えるスタンドオフに抜擢もされています。

ですが、2年の時に怪我をして、3年の時にまた同じ場所を骨折してしまったんですね。「ダメだ、もうラグビーはできない」と分かって、かなり落ち込みました。いろいろ思い悩んで3年の修了時、つまり高校卒業と同等の資格が得られた段階で、休学することにしました。自分の進路そのものを見つめ直したかったのです。

ご自身の進路に対するその時のお考えをお聞かせ頂けますか。

当時は、いわゆる全共闘運動の影響が田舎にも広がって、ぼくらもその最後の世代といった感じ。世の中はどうあるべきか、みんなで議論するような雰囲気がありました。ぼく自身がこれから進むべき道として、今の日本の社会が直面している問題を解決し、貧しくて恵まれない人たちの役に立ちたいと思いました。それには弁護士になるのがいいだろうと考えました。

旧司法試験では、高卒の資格があれば一次試験を受験できました。そこで、まずは一次試験を受け、それにパスしたら本格的に勉強して本試験を受験しようと考えたのです。高専を休学して司法試験に備えて勉強し、一次試験には合格しました。

ところが勉強しているうちに、「法律では自分が解決したい問題を本質的に解決できないのでは」と思い至りました。法律は所詮道具であり、自分が求めているものとは違う、と。

どのような問題を解決したかったのでしょうか。

当時、何が一番大きな問題だと感じていたか。それは、日本の暮らしや人々の価値観があまりにも急激に変わりつつあったということです。ぼくが育った山の集落では、500年前から変わらない生活様式や価値観が受け継がれていました。ところが久留米という地方都市の高専で学ぶうちに、これからの日本が求めている価値観みたいなものが見えてきたのです。

例えば、受験戦争を勝ち抜いて良い会社に入り、立身出世を目指すという価値観。若者が地域社会を捨てて都会に出る、労働力を都市に流入させて経済成長を促進させよう…という考え方。このような新しい日本を支える価値観を、ぼく自身は受け入れられなかった。そういう生き方に意味があるとは思えなかったんですね。

そんな時に文学と出会って、「ああ、自分が求めようとしていたものはこれだったんだ」と。誰も教えてくれなかった答えを発見したような気持ちになりました。

当時、どのような文学作品に共感なさっていたのでしょうか。

戦後無頼派です。たまたま坂口安吾や太宰治の作品を読んでみると、当時の自分が胸の内に抱いていた違和感が、そのまま書かれていると感じました。これから進むべき道に悩み、もがいていた自分が彼らの作品を読んで救われたのです。

文学作品を書くことがこんなふうに人を救える仕事であるのなら、作家を目指そうと思いました。

坂口安吾は、東洋大学のインド哲学科出身の作家です。安吾の『堕落論』は、「価値観というけれど、そもそも価値なんてものはないんだよ」と語りかけてくる作品でした。インド思想の「梵我一如ぼんがいちにょ」にも通ずる真理が、とても刺激的かつ面白い筆致で書かれています。

そうか。自分が悩んでいたのは、ある価値観が間違っていると思ったり、新たな価値観をつくらなきゃと思い込んだりしていたからだ。絶対的に正しい価値など、そもそも存在しないんだ、と深く納得したのを覚えています。

進路については、馬渡先生にも相談されましたか?


中学校で英語を教えていた馬渡 正明先生は、幅広い教養の持ち主でもあった。安部氏の仕事場の書棚には、馬渡先生から譲り受けた数多くの歴史書などが並ぶ。

馬渡先生には、ぼく自身まだはっきりと考えがまとまっていない段階で会いにいきました。今まで高専で学びながら感じていた違和感や、これから自分が進もうとしている作家の道について、ありのままの想いを伝えました。すると先生は、「お前の気持ちは分かる」、「お前のやろうとしていることも分かる」と言って下さいました。

しかし、それまで作家になるための訓練や修業をしていた訳ではありません。勉強期間としてまず10年は必要だろうと思いました。そこで、復学して高専を卒業し、東京の役所に就職して図書館で働きながら作家修業をしようと考えました。古今東西、図書館で勉強して世に出た著作家は多いので、先達に倣おうと思ったのです。

そして1977年4月、21歳の時に東京都職員として大田区役所に就職しました。後に配属希望を出して区立下丸子図書館で働き始めました。

図書館勤務の傍らの作家修業は、どのようなものであったのでしょうか。

図書館で司書の仕事をしながら、文学の同人誌に入って、メンバーの皆さんと切磋琢磨しながらいろいろな習作を書き続けました。ですが、27歳くらいの時、二足のわらじに限界を感じていました。役所の仕事を辞めずにこのまま「小説の好きな公務員」でいるのか、それとも退路を断って24時間小説のことだけを考えるのか、という2つの選択肢を自分の心に突き付けていました。

それで29歳の時、妻に「2年間だけ時間をくれ」と頼み込み、区役所を退職しました。2年で満足のいく結果が出せなければ、作家の道はあきらめて就職する覚悟でした。

あんなに勉強したのは生涯で初めてだったと思います。朝起きて、子どもたちを保育園に送り、後はずっと習作を書き続け、夕ご飯を食べたらまた午前2時くらいまで、いろいろ小説に関する勉強をしました。今改めて思い返してみると、あの2年間は人生で一番幸せな時代であったかも知れません。

どのようなきっかけで作品が世に認められるに至ったのですか。

学生時代から書き継いでいた現代小説を1年ほどかけて完成させ、10社ほどの出版社に送ってみたのです。自信作でしたが、残念ながら読んでくれたのは2社だけ。こちらの2社とは今もお付き合いがあるのですが、当時は「新人のこのレベルの作品を本にすることはできません。まずはどこかの雑誌で新人賞を取って下さい。話はそれからです」といった趣旨の回答でした。

気持ちを切り換えて、いろいろな新人賞への応募にチャレンジしました。ところが、どの作品も一次予選くらいしか通らないのです。「オレは駄目なのかも…」と、精神的にかなり行き詰まってしまいました。

そんな時期に、久留米高専の同級生で文芸部の部長でもあった友人に相談したんです。彼とは上京後も気のおけない交友が続いていて、習作なども読んでくれていた間柄でした。彼曰く、「お前の現代小説は面白くない。だけど以前に書いた歴史小説の小編、あれはとても面白かったよ。そっちに路線変更してみたら?」

その助言が転機になりました。

旧来のご友人のアドバイスで歴史小説に転換されたのですね。


歴史小説への転換を助言した久留米高専同級生の森 敏彦氏は、現在、安部龍太郎事務所の代表を務めている。

それまでの私には、文学とは「現代と相わたるものだ」といった意識があり、歴史小説を書くことは志にもとるような、今にして思えば間違った思いが心のどこかにありました。そのため、自分が書いた作品でさえそれほど評価していませんでした。

しかし、役所を退職した時に妻と約束した「2年間」の期限が迫っていました。藁にもすがる思いでその短編を読み返してみると、これが面白いんです! 早速手を入れて「オール讀物新人賞」に応募しました。結果、私の小説が初めて最終選考まで残ったのです。受賞こそ逃しましたが、うれしかったです。この作品が幻のデビュー作とも言える『矢口の渡』で、後に出版した初期短編集『バサラ将軍』にも収録しました。

高専時代からの友人は、私の良き理解者であるとともに、優れた編集者でもあったのです。

高専で学ばれた経験が、作家活動にプラスになっているとお感じになることはありますか。

歴史小説を書く人で、技術が分かっている人は殆どいらっしゃいません。例えば1600年の関ヶ原の戦いの頃、我が国の鉄砲をつくる技術はどのくらいの水準であったのか。当時の火縄銃の構造がどうなっていて、弾丸や火薬などを含む材料のサプライチェーンはどうなっていたのか。弾の飛距離や威力、命中精度などの研究も殆どありません。

私の場合、機械工学の視点から、鉄砲であれば当時の技術・工具・材料でどのように鉄砲を製造していたのか、その技術的な背景をきちんと押さえるようにしています。技術の視点で時代をロジカルに見ることは、一つの歴史観であるだけでなく、「真実にどう迫るか」に関わってくると考えています。

このような視座に立つと、例えば戦国大名たちが考えていたことと、現代の企業経営者が直面している問題には共通点があり、時代は違っても人の想いはあまり変わらない、といった普遍性も見えてきます。

面白いですね。作家活動において、安部様はこれからも創作上の新たな試みに挑戦していかれるような印象を受けます。

私はプロの作家としてデビューした33歳の時、これからの自分の作家人生はどうあるべきかを考え、「36年計画」を立てました。最初の12年は基礎をつくる時期。次の12年で自分の作風をつくる。そして次の12年で作家として第一線に立てるようにしようと。すでにその36年は過ぎてしまいましたので、次の12年の計画を立てたところです。

ぼくは、歴史小説は「語りの文学」であるべきだと考えています。これまでも様々な作品を通して、物語の「語り方」を模索してきました。

例えば、西洋の小説のように、Aさんが登場する場面はAさん視点の三人称で書き、Bさんが登場するシーンではBさん視点の三人称で書く文学があります。このような語りだと、私の場合、どうしても自分の内面と登場人物の間に何か壁のようなものを感じてしまうんです。

これに対して、「万能の語り手」が全ての登場人物の心の動きを把握した上で、物語を始めから終わりまで語っていくスタイルで書く方法もあります。いわば、『源氏物語』の語り方です。ある時、自分でもびっくりしたのですが、書いている瞬間からどんどん次の発想が浮かんできました。歴史作家としての自分の資質を、思うままに作品に注ぎ込めるような手応えを感じ、「これだ」と直感しました。

この語り方の手法をこれから12年間、しっかり積み重ねて磨いていけば、歴史の中で人の物語を紡ぐ作家として、次の境地に到達出来る気がしています。

ありがとうございます。では最後に、現役の高専生や卒業生に向けて、先輩として一言お願いできますか。


「高専で学んだ一番大事なことは、“論理的に考える” 姿勢です。人の物語を伝える歴史の土台を、きちんと技術の側面からも把握したいと思っています」

かつてぼく自身がそうであったように、何か壁にぶつかっていたり、悩んでいたりする後輩の方もいらっしゃると思います。

役所を辞めるかどうかで悩んでいた28歳の頃、友人に誘われてインドを訪れたことがあります。ある日、町で物乞いの子どもたちに取り囲まれていたのですが、なぜか突然、「あ、人間はありのままで尊いんだ」と、雷に打たれたように感じたことがありました。

普通に考えれば、たくさんの子どもたちが物乞いをしながら生きていることは、悲しくて不幸なことだと思います。でもこの時は、人に優劣はないし、幸不幸もなく、誰もがありのままで尊いと思ったんですね。翻って自分が役所を辞められないのは、小説だけで食っていけなかったら不幸になると恐れているからだ。せっかく生まれてきたのだから、自分が信じる道を進んでみよう。そう思って、帰国後にすぐ辞表を出しました。

今の社会に適応するための価値観を持つことは必要だと思います。でも、一つの価値観だけに縛られていると、本当に大切なものが見えなくなることがあります。より広い目で自分を客観視して、自分の意思にもとづいて新しい選択をする心の自由を持つことで、見えてくるものがあると思っています。

本日は長時間にわたって貴重なお話を頂き、ありがとうございました。

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