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活躍する高専出身者インタビュー

必死の覚悟で勉強し、経営危機を乗り越える。 「自由と自立」を学んだ、久留米高専時代に感謝。

Interview

中学校を卒業後、井手様が久留米高専に進学された経緯を教えて下さい。

中学生の頃から音楽が好きで、レンタルレコードを借りてはラジカセでカセットテープに録音して聴いていました。何百本にもなっていた手作りのミュージックテープは、アメリカやイギリスのポップスが多かったと思います。そんな音楽大好き少年でしたから、AV機器への興味が生まれ、将来はオーディオ機器メーカーで仕事がしてみたいと考えていました。もともと公立高校を受験しようと準備していたのですが、試験日程の早い久留米高専を腕試しに受けてみたら合格してしまって…。少し受験勉強に疲れていたこともあり、公立高校の受験は止めて、高専に進学することに決めました。

私は第1志望だった電気工学科には入れず、第2志望の機械工学科に行くはずでした。ところが入学直前に欠員が出たことで、電気工学科で学べることになり、モチベーション高く、高専生活を始めることが出来ました。高専の授業では、エンジニアとして企業で勤務経験のある先生が、社会人としての経験を交えながら専門分野の話をして下さったのが面白かったのを覚えています。一方、オーディオ機器メーカーへの就職に役立ちそうな工業系の科目については、当時は「これだ!」と思えるほど興味を持って取り組めませんでした。クラスで一番勉強が出来る同級生のグループに入って、優秀な友達に勉強の仕方を教えてもらいながら、何とかついて行ったような高専生活でした。入学当初はクラスで4番だった成績も、その後だんだん落ちていき、卒業時にはクラスのちょうど真ん中くらい。どうにかこうにか落ちこぼれずにいた学生でした。

高専生時代に熱中されていたことはありますか。

1年生から3年間、サッカー部に所属して練習していました。ですが、3年生から家計を助けたいという気持ちでアルバイトを始めたので、そちらが忙しくなってサッカーの練習と両立出来ず、部活は辞めてしまいました。アルバイトについては、ファミリーレストランの皿洗いから始まって、長崎ちゃんぽんを作ったり、焼肉屋さんや喫茶店でホール係をしたりしました。飲食系だけでなく、着ぐるみのパフォーマンスや家庭教師など、色いろなアルバイトを掛け持ちしました。平日は授業が終わってから21時くらいまで、土日は終日アルバイトに精を出していました。

おかげで高専の授業料は全部アルバイト代で賄えるようになり、母には感謝されました。自動車免許の取得や趣味のバイクも自分で稼いだお金で買いました。当時の記憶をたどると、高専の授業とアルバイトだけであり、あまり遊んでいた記憶がありません。改めて振り返ってみれば、社会に出る前に何か面白そうな仕事を経験したいという強い欲求に突き動かされていました。次々に新しいアルバイトに挑戦することで、今も変わることなく自分の中にある、「色いろなことをやってみたい欲求」を満たしていたのだと思います。

久留米高専での5年間は、井手様にどのような影響を与えたとお考えですか。


中学生の頃から音楽好きで、将来はオーディオ機器メーカーで働きたいと思っていました。高専時代はアルバイトに励みましたが、アルバイトをするにも、勉強をするにも、自分で決めて責任を持たないといけなかった。卒業後は希望していたオーディオ機器メーカーで働き始めました。

「自分の興味に沿って専門的に学ぶ喜びを知りました」と言えればいいのですが、残念ながら私の場合はそこまで突き詰めて勉強していませんでした。ただ、入学当初の15歳の私には、異なる年齢層の先輩が同じ学校にいて――サッカー部の先輩には23、4歳の “おじさん” もいました――、この人の多様性に満ちた環境は衝撃でした。時には先輩から理不尽な言葉を投げかけられ、今思えばとても社会勉強になった5年間だったと思います。

それに、高専には自由がありました。特に学習や生活面の指導はなく、本当に学生一人ひとりの裁量に任されていました。ここまで「自由」があるということは、「自立」が求められるということです。誘惑も少なくないので、自立して勉強しないとすぐに落ちこぼれてしまいます。自由な環境の中で「どこまで自分は勉強するのか」「どこまでアルバイトをするのか」、全て自己責任で決めて行動しなければなりません。自分で考えて様々な人たちと交流していく、この自由な感覚は自分に合っていましたし、今に生きていると思います。私たちの会社、ヤッホーブルーイングの文化の一つ、「自ら考えて行動する」にも通じる雰囲気があったと言えるでしょう。

久留米高専卒業後は音響機器メーカーに就職し、社会人生活をスタートされます。

1988年、カセットデッキで知られていたティアック(株)に入社し、生産技術部門でフロッピーディスクドライブ(FDD)の電子回路パーツの生産技術工程を担当しました。そもそもオーディオ機器に興味があったのに、入社面接で「何にでも興味があります!」と宣言したせいか、コンピュータ周辺機器部門に配属されたのです。後で知ったことですが、ここは当時のティアックの花形部門でした。私が在籍していた5年間で3.5インチFDDは世界シェアNo.1を獲得し、当時の株価は信じられないくらい急上昇しました。海外工場への技術移転チームにも抜擢され、若手ながら様々な得難い経験を積むことが出来ました。

ところが5年ほどすると、「それなりにこの世界は経験出来た」と勘違いしてしまい、ティアックを飛び出しました。FDDはB to Bの製品でしたから、「もっと直接人の喜びに触れられる仕事がしてみたい」と感じていました。高専の時に様々なアルバイトに挑戦したように、素直に自分の気持ちに従って、新しい世界を見てみようと思ったのです。ただし、意気揚々と転職したものの長くは続きませんでした。そこでバイクに荷物を積んで、数カ月間かけて東北から北海道を回る「自分探しの旅」をしながら、今後のことを見つめ直しました。

その後、長野県との出会いがあったそうですね。


2020年9月にオフィス機能と一部醸造設備を佐久市から、ここ御代田(みよた)醸造所に移転し操業を始めました。御代田醸造所は、軽井沢から三駅の御代田駅からすぐの場所に位置する道の駅風ハウス。樹の香りが漂う広い室内は、全員の顔が見渡せるようにワンフロアになっています。

アメリカンタイプのバイクで、ゆっくり北海道を走る旅をして、色いろな人たちと出会い、優しく接して頂きました。ある時、キャンプ場でテント泊をしていて「やっぱり自分は人が好きなんだな」と気付き、「人と関わり、人が喜ぶような仕事がしたい」と強く思いました。それも、できれば豊かな自然の中でそんな仕事がしたい、と。数カ月後、求人雑誌に個人経営の広告代理店が軽井沢で営業職を募集しているのを見つけ、「長野の自然環境っていいな」と思って応募し、長野県に移り住みました。

それから3年ほど経って、広告代理店のお客様であった(株)星野リゾートの代表、星野佳路(よしはる)から、「新たに地ビールの会社を設立するから」と声をかけて頂きました。私自身は既に広告の仕事は辞めていた時期です。そして1997年、創業したばかりの株式会社ヤッホーブルーイングに、営業担当として参加することになります。

その後、「よなよなエール」を大ヒットさせながら、経営危機も経験されています。


仕込釜と、発酵タンクが並ぶ御代田醸造所の醸造設備。こちらの設備は1回醸造仕込みで約600L(1,600本分)を作ります。佐久醸造所より設備は小さいですが、小さいからこそ、トライアルでビールを作ることが出来ます。

「これまで大手企業しかやったことのないビール醸造を、自分たち7人でやるんだね!」と、創業メンバー全員で高い熱量を持って取り組みました。「よなよなエール」を一から開発して世の中に出そうとしていた時期でした。ビールの醸造免許の下限となる製造量が引き下げられたことを受け、各地に小規模な醸造業者が誕生し、90年代後半は空前の地ビールブーム。幸い、「よなよなエール」は多くのファンに受け入れて頂き、製造が追いつかない状態になりました。夜遅く、私が営業先の酒類卸会社から帰ってくると、醸造所にはまだこうこうと明かりがつき、みんな楽しそうに仕事をしていました。

ところが2000年に第一次地ビールブームが終息すると、一気に売れなくなりました。サプライチェーンとの関係強化を図ったり、起死回生のイベントを企画したりと、数年に亘ってありとあらゆる施策を講じましたが、全く効果がありません。規模が拡大していた会社の雰囲気も一転して暗くなり、従業員から笑顔が消えて会話はなくなり、一人また一人と辞めていきました。これまでは営業担当として、持ち前の人懐っこさと行動力を武器に何とかやっていましたが、それだけでは通用しない深刻な経営状況でした。このままではダメだと思い至って、30代前半にしてビジネスや経営について必死で学び始めました。高専時代の反省を込めて、今こそ自分で考え抜いて、必要な経営の知識を身につけなければならないと覚悟を決めました。

どのようなテーマ・方法で学び、それを経営再建に活かされたのでしょうか。

まず、赤字の原因を理解し、解消する方策を知ろうと会計学を学びました。収益創造の基本であるマーケティングも机上で改めて勉強。また、会社の人間関係が悪くなっていたので、組織戦略やチームビルディングについても学びました。いずれもビジネスの通信教育です。半年ほどの講座を一つずつ学んでいくと、経営者の星野がミーティングで話していることが、少しずつ分かるようになりました。私の発言に対しても星野が耳を傾けてくれ、前向きに議論を交わす時間が次第に増えていきました。

販路拡大の打開策として、2004年からネット通販に着手していましたので、楽天グループが出店者向けに東京で開講していた「楽天大学」にも毎週のように通いました。人差し指だけでパソコンのキーボードを打ちながら、トップページの作り方、メルマガの書き方、クレーム対応の仕方等、Web店舗の運営ノウハウを基本から一つずつ学んでいきました。すると、2004年を契機に売上は上昇に転じ、やはり勉強が大切だということを思い知らされました。以来、様々な出会いや仲間の努力に支えられ、ヤッホーブルーイングは2021年まで19年連続増収という成長を続けています。

貴社は2017年の「働きがいのある会社」ベストカンパニーに選ばれるなど、クラフトビールファンだけでなく、幅広い層からの注目度が高くなっています。


倒産してしまいそうな時期に、ずっと支えてくれたのが熱量の高いファンでした。それ以来、「大切にすべき存在はファン」という意識が会社全体に根付いています。御代田醸造所のオフィスにはファンの方からの手作りの贈り物が所狭しと陳列されています。ファンとは、オウンドメディアやTwitter、Facebookで繋がり、醸造所の見学ツアーや、数千人が集まって同社の製品を飲んで楽しむイベント「よなよなエールの超宴(ちょううたげ)」などを開催しています。

私が会社経営を意識するようになったのは、前社長の星野と「よなよなエール」のコンビニエンスストアへの出荷をめぐってテレビ会議で大喧嘩したのがきっかけです。星野はリゾートビジネスが多忙を極め、当社に常勤していなかったので、定期的にオンラインで会議をしていました。その時は売り言葉に買い言葉で、「社長がそんな姿勢だから、会社はいつまでも成長できないんですよ!」と声を荒げてしまって。周囲のみなさんは、「ああ、井手さんもうクビだな…」と思ったほど、場の空気は悪かった。ところが会議が終わった日の夜、星野から「今日の議論は面白かった。また続きをやろう」とメールが来たのです。

そして後日の会議で、「井手クン、そろそろ社長をやるかい? そういう心づもりでいてほしい」と言われて。それからは自然な流れで、2年後の2008年に代表取締役社長に就任しました。星野は当時のことを「井手は上司の顔ではなく、私たちのビールを愛してくれるファンのことだけを見ていた。バトンタッチする時期だと思った」と何かの記事で書かれていました。

私はただ、倒産寸前まで追い詰められて会社の雰囲気が暗くなり、あんなにイキイキ働いていた仲間が辞めていく。こんな苦しい経験を二度とみんなに味わわせてはいけないと、それだけを思っていました。そこで経営者となってからは、様々な新しい施策を導入し、一人ひとりの社員が大きなやりがいを持つことが出来、かつ働きやすい会社を作ろうとしてきました。社長以下の全社員がニックネームで呼び合うフラットな組織を作り、自ら考えて行動する仲間――知的な変わり者――を集めました。互いに信頼し協力し合うチームが生まれるよう「チームビルディング」の研修を強化しました。いつでも健全な議論が出来て、お客様のためにベストな打ち手が導けるような企業文化を、引き続き大切に育てていこうと思っています。

最後に、高専生や卒業生に向けて、先輩としてメッセージをお願い致します。


高専では「自由がある反面、自立が求められる」ことを学びました。高専生には、社会に出てもこの学びを忘れず、今の環境を活かしてほしいと思います。

社会に出て色いろな経験をして今更ながら分かったことですが、一つのキャンパスに多様な年齢や個性を持った学生が集まり、15歳からの5年間、安心して心置きなく学び、成長出来る時間というのはとても貴重です。誰にとっても大きな財産となり得る経験が出来ます。自由がある反面、自立が求められる高専ならではの環境には、本人が社会に出てから非常に役立つ学びが得られます。今高専で学んでいる学生さんたちには、その恵まれた環境をぜひ活かしてほしいと思っています。

また、私自身が30歳を過ぎてからビジネスを学び、それを今、会社経営や組織の運営に活かせているように、社会に出てからも「ここぞ」という勝負どころでは、やはり勉強することが役立ちます。私は10代に十分学んでこなかった反省を込めて、高専時代に自分で考えて必要なことを学ぶ感覚を養っている人は強い。高専での学びは、その人が社会を生き抜いていく上で、大きな自信を与えてくれると思います。

本日はお忙しい中、長時間に亘りご協力頂き、ありがとうございました。

※会社の雰囲気が分かる社歌のリンクです。
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ヤッホーブルーイング社歌「ビールでつくろう」

Information

株式会社ヤッホーブルーイング

創業 1997年3月
資本金 1,000万円
本社所在地 長野県 北佐久郡 軽井沢町 大字長倉 2148番地
従業員数 205名
主な事業内容 クラフトビール製造及び販売
※この記事の所属・役職・学年等は取材当時のものです。