高専出身の転職は正社員専門のエリートネットワーク

高等専門学校の特徴や存在意義について、谷口先生のお考えを教えてください。


独立行政法人 国立高等専門学校機構
理事長 谷口 功先生
「東京大学や京都大学等の各国立大学が、平成16年4月に国立大学法人として自立の道を歩み始めました。
同時期に、全国51校の国立高等専門学校は、独立行政法人 国立高等専門学校機構として、新たに再スタートを切りました。」

高等専門学校(以下、高専)は、中学校卒業者を高校入学と同時期に受け入れ、5年間にわたる一貫教育によって高度な専門技術を習得した“人財”を育てる、日本独自の高等教育機関です。
数学、英語、国語等の一般科目とリベラルアーツと呼ばれる教養科目、実験・実習を重視した専門教育をバランス良く行い、大学と同程度の専門的な知識と技術を身につけられるカリキュラムが特徴です。

5年間の本科卒業後に約6割の学生は就職を希望し、極めて高い就職率を継続しています。
就職希望者以外の本科卒業生は、2年間の専攻科に進学してより高度な専門教育を受ける、あるいは技術科学大学をはじめとする四年制大学に編入学、海外の大学等に留学する等、多彩な進路があります。

高専卒業者の特徴的な事例として挙げられるのは、起業家が実に多いことです。
一人でロボットを作る会社を立ち上げた卒業生や、起業に成功した卒業生がまた新たに後進の起業をサポートする会社を立ち上げたケース等、高専で学んだ技術をベースにあらゆる業界・分野において起業を成功させた事例があります。

高専生は、実験や実習を積み重ね、自分の実力に自信を持っているからこそ、積極的に起業へと踏み切れるのではないでしょうか。


経済成長を支える科学・技術の更なる進歩に対応できる技術者を養成していくために、1962年に初めて国立高等専門学校が設立された。
社会が必要とする技術者を養成するために、大学の教育システムとは異なり、中学校卒業生を受け入れ、5年間の本科の教育及び2年間の専門教育が行われる。
独立行政法人 国立高等専門学校機構より引用)

近年、日本経済の活力を取り戻すために、社会の様々な立場の方々が、それぞれアイデアを述べておられます。

国立高等専門学校の設置者である国立高等専門学校機構の理事長を務める私としては、「自らの実力を試したい」と起業する高専卒業生をいっそう応援することのみならず、高専生に限らず誰もがより起業しやすい環境を整えたいと、具体的には失敗しても3回までは大きな経済的ダメージとはならないような支援施策を、国が準備するべきだと考えています。
チャレンジする若者には敗者復活の道が必要なのです。

もちろん、すべての高専生が起業に向いている訳ではありません。
実力を持った高専生には、大卒者と同等の活躍の場を提供することが必要だと思います。
私は立場上、たくさんの企業から「高専生の実力は認めるけれど、なかなか当社に来てくれない」という声をいただきます。
その背景には、高専卒業生を実力に見合った待遇で迎えていない現実があるのも一因だと考えています。

実習や実験、さらには、「ロボコン」に代表される様々なコンテストへの挑戦を通じて実践的な技術を磨いた高専生の実力は、本科の卒業時点で大学の学部卒業生と同等、もしくはそれ以上の力があり、さらに2年間の専攻科を出た高専生は、大学院修了生と同等の実力を持っています。
ですから、初任給も配属も実力に合わせて決定したら良いと、私は考えています。

実際にそうされている企業も少なくはありませんし、高専の卒業生はそういった企業に集中して応募します。
そうした企業は単に給料が良いだけではなく、学歴のみで一律に判断せず個人個人の実力に見合った仕事に取り組ませてもらえるからです。

以上について、私は文部科学省や経団連・経済同友会の方々等と会合する機会がある毎に、積極的に申し上げています。
賛同いただける方や企業が徐々に増えてきていることは、嬉しい限りです。
しかし、まだまだ充分とは言えません。

今の時代だからこそ出来る高専の取り組みについて教えてください。


国立高等専門学校は北海道から沖縄まで全国で51校。産学連携事業にも積極的に取り組み、各地域の産業とも深く結びついている。
独立行政法人 国立高等専門学校機構より引用)

高専生が実験と実習、さらにコンテスト等で鍛えられているのは間違いありませんし、かつて日本の高度成長を支えた「ものづくりに直結する実践的な教育」という役割は、いささかも霞んではいません。
頭と手を同時に使えるように教育訓練された卒業生は、アイデアや理論を具体的な形や製品にする力をもって社会で活躍しているのです。

しかしながら今の時代、どこを切っても同じような金太郎飴のような人材育成では、社会のニーズに応えきれないのも事実です。
そのために全国51校の国立高専では、最低限の学力を保証する目的で、教育の6割に関しては物理・化学・数学等の基礎と専門科目の基礎に関して質の高い指導を実施し、残りの4割に関しては各高専独自の教育を認める「モデルコアカリキュラム」を推進しています。
そうして地域特性に合った教育と高専教育のさらなる高度化を目指しているのです。

また、各高専独自の取り組みとして、産学連携事業も積極的に取り組んでいます。
平成16年に国立高専が国の直接設置機関から独立行政法人に移行したことをきっかけとして、独自の取り組みが随分と自由になりました。
この流れは近年ますます加速しています。
民間企業からの寄付金によって開設される寄付講座もその一つです。これは、寄付の目的に沿った教育研究を行い、地域から求められる技術者の養成を図るものです。

国立高専機構自体も、企業とタッグを組んだ取り組みを幾つかスタートさせています。
大手電子材料会社とは、制御教育に関する技術振興と地域発展に寄与するために、教育研究および人材育成について包括的な協定を締結しました。
それによって、制御技術セミナーの開催や制御技術教育キャンプ、国立高専教員と電子材料会社社員との人材交流等を実現しています。
他にも外資系IT企業とはインターンシッププログラムを、大手重工メーカーとは共同研究や人材交流等の包括連携協定を結んでいます。

新しい取り組みに充分に成功している学校も、まだまだ実績を上げきれていない学校もあります。
国立高専機構としては、社会に貢献できる社会の「財産」としての有為な人「財」として活躍できるように、高専生が産業界と連携・協働できる機会をもっと創れるように、今まで以上に努力する所存です。

グローバル環境の中で、高専の果たす役割についてお聞かせください。


「高専卒業生の奨学金返納率はほぼ100%と聞きます。
産業界で高専生が着実に力を発揮している証左として、心強く思っています。」

近年の高専は、海外にも目を向けています。
人材面を見ても、日本の産業は国内だけに閉じてはいません。
今や製造した工業製品を輸出するだけではなく、企業も現地に製造拠点や販売拠点を設け、日本からも数多くの人材が渡っています。
その流れに高専が貢献しない理由はありません。むしろ、海外においても産業と教育を結ぶ取り組みをリードしていると自負しています。

例えばJICA(独立行政法人 国際協力機構)と、海外における職業教育システムの構築を支援する目的で、国立高専教員の派遣等を行った実績があります。
実際、高度経済成長を支えた日本の高専教育は、世界中の国々から熱い眼差しを向けられています。
現在、国立高専機構はモンゴルとタイにリエゾンオフィスを設けており、ベトナムにも開設の予定です。
最近ではUAEやトルクメニスタン、チュニジア、コロンビア等の教育関係者が来訪されています。
また、教育大臣もしくはそれに準ずる関係者が来訪される国も数多くあります。海外の大学と結んだ包括的学術交流協定は、30校以上に上ります。

外務省からの依頼で、2017年10月にはタイの国会で高専の実務教育について講演してきました。
そこで主張したのは、「高専とは日本独自の成功を収めてきたユニークな教育システムである」ということです。

海外において高専の概略を説明すると、工業大学に類すると捉えられるか、もしくは職業訓練校と誤解されることもあります。
どの国も、その国の既存の教育制度に当てはめようとされるのです。それでは高専教育の本質を充分にご理解いただけません。
そこで、実験と実習、さらに各種のコンテスト等を積み重ねてものづくりの実力を磨く高専は『KOSEN(高専) is KOSEN』であると、他のどのような教育機関とも違う、と述べています。
お陰で、今日では“KOSEN”は国際語として、世界に通じる言葉になりつつあります。
 
日本の高専からの留学や教職員の派遣も進んでいます。
2015年度は約2400名の高専生が研修等の目的で海外に渡航し、約1500名の教職員が学会参加や研修活動の目的で渡航しています。
また、それとは別に、海外に羽ばたく人材の育成を目標に、現在の高専では英語教育にも力を入れています。
もちろん、諸外国からの留学生も受け入れています。

海外で、“KOSEN”が普遍的な存在になる日もそう遠くないのではないでしょうか。

高専の在学生および卒業生へのメッセージをお願いいたします。


国立高等専門学校機構本部 玄関にて

私は東京工業大学を卒業して博士号もいただき、その後は熊本大学の工学部で助教授、教授、工学部長などを経て、学長も務めさせてもらいました。
その熊本時代に、当時の熊本電波高専と八代(やつしろ)高専を熊本高専に統合する議論の陣頭指揮を執って、深く関与しました。

その時に感じたのは、高専生の実力の高さです。
多くの高専生や教職員の能力に触れた時、目を見張るものがありました。

『確かな技術を持った本当に凄い人材が大勢いる』

それが、驚きと共に当時の高専から受けた私の印象です。
この印象は国立高専機構の理事長を務める今、現実として実感し、いっそう確かなものになっています。
そこで私は、国内外で、高専生が目指す技術者は、社会を健康に発展させ、イノベーションを推進する「社会のお医者さん(Social Doctor)」であると言っています。
また、新しい価値を創り出す「クリエイター (Creator)」であるとも言っています。

高専在校生の皆さんは、研鑽に励んで社会に極めて有用な技術を磨いていただきたいと思います。
Social DoctorでありCreatorである高専卒業生の皆さんは、磨いた専門性を背景に社会を牽引する実力を備えているのです。
この事実を誇りとし、未来に向かって力強く歩んでいただきたいと望んでいます。

本日はお忙しい中、長時間に亘りご協力いただき、ありがとうございました。

釧路高専の概要についてご紹介下さい。


釧路工業高等専門学校 正門前

北海道釧路市の西方、たんちょう釧路空港に近い場所に立地する釧路高専は、国立高専4期校として昭和40年に開校。当初は機械工学、電気工学、建築の各学科があり、その後に電子工学と情報工学が加わり、しばらくは5学科体制で高い専門性を持った人材の育成を進めてきました。
ところが時は平成に移り、企業の製品開発や設計において高度化や複合化、融合化が進んだことで、学生時代に学んだ分野の視点だけでは第一線のものづくりの現場で実力が上手く発揮できないという場面が、社会と直結した高等教育機関において問題視されるようになりました。
本校にも、社会に早期に役立つ実践的な技術と創造性を兼ね備えた卒業生を送り出す使命があります。そこで5学科体制を一旦リセットし、抜本的な改組を行うことになったのです。

当時の学校関係者の間では学科の再編案で侃侃諤諤の議論があったそうですが、結果として平成28年に全学生が入学初年度を一般教養科目と専門基礎科目の授業を受け、2年生進学時に学生の全員が広い視野で技術を学ぶことを指向して設置した創造工学科に進むという学科の改組が行われました。
ただ、創造工学科が広くとも浅い知識しか身につけられない学科に陥ってはなりません。しっかりとした専門性が身につくことを担保した上で他の分野の基礎を学べる、そんな工夫が必要です。
そうした配慮から、創造工学科の中に3つのコースを設定しました。情報工学分野と機械工学分野にわたるスマートメカニクスコース、電気工学分野と電子工学分野にわたるエレクトロニクスコース、そして建築デザインコースです。
前2コースの学生は本科の4年間、所属分野で専門性を獲得しつつ、コース内のもう一方の分野についても学び、さらに学科共通科目も受講することで、社会の期待に即した人材となって巣立っていくことになります。
建築デザインコースの学生は、建築設計を軸に街づくりまで視野に収める学びで、学生の指向に応じてゼネコン等に加え鉄道会社など都市開発を担う企業への進路が開けています。

創造工学科を卒業した学生は、開始年度からみてまだまだ少数ですが、開校から実践的な技術を持った人材の輩出を企図して様々な教育施策に取り組んできた本校は、進路先から高い評価を頂いています。
多くの卒業生が活躍する釧路市役所からは公務員試験の受験資格において大学卒業者と同じ扱いを受けており、北海道大学からは北海道内の4高専を対象に約20名の編入推薦枠が認められています。

釧路高専の特徴的な取り組みを教えて下さい。


5学科を3コースに再編し、専門性を担保しつつ企業から求められる高度化や複合化に対応、また、5分野の混合チームで地域課題に取り組む複合融合演習によって、生きた社会実装を体現しています。

創造工学科を設置する背景となった、専門分野の隣接領域にも視野を広げて社会の実情に対応できる人材を育むというコンセプトを推進する取り組みの一つに、複合融合演習があります。
これは、5分野混合チームが現場目線で地域課題の本質を理解し、アイデア創出から試作までを行う、釧路高専独自の社会実装型フィールドワークです。
先般は、防災というテーマで段ボールベッドを開発しました。釧路が面する十勝沖は地震の発生が多いこともあって釧路地域の住民は防災意識が高く、避難先に必要な段ボールベッドの開発は地域ニーズに即したものでした。
当初、学生たちは寝心地の良さを追求。しかし使用する行政側と課題の本質に向けた協議を進めていく中で、平時における収納のしやすさや非常時の組み立てのしやすさも重要であることが判明。学生たちは改良を進め、使用する側の要望に対して十分に応えられるプロトタイプにまで漕ぎ着くことができました。

また、学生たちの日々の学習意欲をモチベートする毎年のイベントとして、4年生を対象にキャリア講演会を行なっています。
その内容は、外部講師に、高専での学びが社会で役立つことを講演してもらうものとなっています。
前回は堀江貴文氏に講演して頂きました。実は、堀江さんが設立した日本初のロケット開発会社であるインターステラテクノロジズ株式会社の本拠地は、釧路市と同じ道東の大樹町(たいきちょう)にあり、そこに本校の卒業生が入社しています。
その卒業生の優秀さを認めた堀江さんが、講師を買って出て頂きました。
講演会当日に堀江さんが語られた「高専生の皆さんが学ばれていることは、すべてロケット開発に必要な技術です」という言葉に、拝聴した学生たちは目を輝かせていました。

地域社会や地域産業、他の高専との連携についてお聞かせ下さい。


日本で唯一民間企業でロケットの打ち上げに成功したインターステラテクノロジズ株式会社やロケットランチャーシステムを担当する地元企業の釧路製作所主催のロケットランチャー製作プロジェクトへの参加をきっかけにロケットランチャープロジェクト部が発足しました。ロケット開発プロジェクトに学生が関与できる本格的なクラブです。

堀江さんのインターステラテクノロジズ株式会社に技術協力している、株式会社釧路製作所という企業があります。本来は橋梁工事が専門ですが、打ち上げプロジェクトにはロケットの発射台設置を精密に調整する技術で参加し、出資もされています。
この釧路製作所には本校からの卒業生が就職していますが、在校生の課外活動にも技術面での協力を頂いており、特にロケットランチャー(※)プロジェクト部が大変お世話になっています。

釧路市に本社を置く食品機械メーカーの株式会社ニッコーにはインターンシップで協力を頂いてますし、卒業生の就職先でも人気です。
同社はロボットシステムの技術に長け、ものづくり日本大賞やロボット大賞などの受賞歴を誇っています。
そもそもは地場の水産加工品産業が海外の加工業者に価格競争で劣勢を強いられ、熟練の加工職人が高齢となり後継者が足りないといった釧路を中心とする道東エリアの重要課題に、設備の自動化やロボティクスで応えていくことによって成長された企業です。
現在は水産業の他にも農業や酪農、観光業、飲食店などあらゆる分野がロボット化する時代を見据え、DX化の推進や省力化を追求されています。
そんな同社において、就職した本校卒業生たちは高専時代に養った技術や思考力を存分に発揮しているようです。

株式会社ニッコーとの共同教育を活かし、創造工学科機械工学分野を中心にロボット技術に注力している本校は、国立高専機構の先端技術教育推進策の一つであるCOMPASS 5.0ロボット分野に、協力校として令和4年度より参画することになりました。
ロボット分野のプロデューサー的人材育成を柱とする教育パッケージを作成し、全国の高専に展開していくプロジェクトが進んでいます。

※小型ロケットの発射装置

釧路高専からはどのような人材が輩出されていますか。

実は、先の株式会社ニッコーの佐藤一雄社長は釧路高専の卒業生です。
同社の、技術で社会問題の解決に立ち向かうという社風は、まさに高専教育と理念が一致していますが、佐藤社長が釧路高専時代に培った「人に役立つものづくりのマインド」を、今も具現化されているといっても過言ではないでしょう。

また、セブンイレブンやイトーヨーカ堂を擁するセブン&アイグループの金融機関であるセブン銀行の松橋正明社長も、釧路高専の出身です。
高専卒業者と大手金融機関の経営者では、イメージが結びつかないかもしれませんが、松橋社長は釧路高専卒業後にNECグループに入社し、図書館の蔵書検索の開発などを経てアイワイバンク(現セブン銀行)に転職されたという経緯です。
その後、流通業の進化の鍵となったATMの企画開発での実績が認められて役員となり、社長に就任されました。優れたエンジニアは経営トップにも立てるという好例ではないでしょうか。

大塚先生のご経歴を簡単に振り返って頂けますか。


講師から長い期間高専で学生を見てきたことから、高専生の能力の高さ、素直さ、勤勉さを充分理解しています。その力を社会や人の役に立ち、喜んでもらおうとする「志」をもって活躍をしてほしいと期待しています。

私も高専で学んだ一人です。卒業したのは東京高専の電子工学科で、東京工業大学に編入学し、工学部電気・電子工学科を卒業後に同大学の大学院理工学研究科博士課程を修了。工学部の助手を経て東京高専の講師に移籍しました。
それから同高専で助教授、教授、副校長を担い、令和4年に現在の釧路高専校長に着任しました。
専門は電気・電子工学で、東工大では高温超伝導薄膜の作成やアナログLSIの自動設計CADの開発、動画圧縮符号・復号用LSIの開発などに関する研究を行い、東京高専の研究者・指導担当としては指紋認証や虹彩認証、AI画像認識などに取り組んでいました。

振り返ってみますと、私の経歴は人とのご縁が大きな意味を持っているように思えます。
高専に転職したのは、高専時代の恩師に勧められたのがきっかけですし、釧路高専とも以前から縁がありました。
3代前の釧路高専校長である岸浪建史先生とは、今から10年前に高専の会議を通して知り合い、釧路高専で実践されている地域と一緒に学生を育てる活動を先生から直にお聞きし、薫陶を受けていたのです。

高専の在校生及び卒業生へのメッセージをお願いします。

高専は大学受験に労力を割く必要が無く、時間をたっぷり使って授業では頭を使って考えながら知識を蓄え、実験や実習では手を動かして結果を目で確かめることによる経験を得ることができます。
この知識と経験が合わさって、実践的に役立つ「知恵」を養えることができると私は考えます。
就職して、企業の製品開発上の課題や、それを取り巻く社会の難題に突き当たった時に、突破力をもたらすのはこの「知恵」に他なりません。
高専で学ぶ在校生は知恵という突破力を獲得することができ、卒業された皆さんには、すでに備わっているはずです。

それに加えて必要なのは、努力を厭わず人に役立ちたい、喜んでもらいたいという、「 志 」です。
クルマに例えるなら、知識や技術はボディやタイヤ。「 志 」はエンジンです。成長を促し、壁を乗り越える力となる「 志 」を確かに持って、輝ける未来を歩んで下さい。

本日はお忙しい中、長時間に亘りご協力頂き、ありがとうございました。

営業に機械工学や経営工学的な考えを取り入れ、業績アップ。

鹿児島高専を卒業後、文化シヤッターに入社された経緯を教えて下さい。


南九州支店営業課長時代(1989年)。
数年で転勤するだろうと考えていましたが、50歳になるまで同支店で勤務することになります。

鹿児島高専の機械工学科に在籍していた私は、4年生の時に大阪に本社のある大手空調機器メーカーのインターンシップに参加しました。オイルクーラーの試験設備のある部門で、そこで3週間ほど試験のお手伝いをしていたのですが、当時の指導社員の方から、卒業後は是非うちに来てほしいと言われました。私も会社の雰囲気がとても気に入ったので、その気になっていたところ、5年生の就活時期の直前に第1次オイルショック* が勃発し、その会社の新卒採用は取り止めになってしまいました。私は慌てて高専の先生に相談し、東京の空調設備工事会社への就職を紹介して貰いました。

そうして何とか就職した会社では、入社直後に3ヶ月に亘る新人研修があり、そこで様々な部門の部長からの部署紹介がありました。仕事内容を説明する講師となりつつ、自部署への配属のアピールを行うのです。そして私が手を挙げて志望したのは、同期たちの人気を集めた主流部門ではなく、汚水処理設備を担う不人気の環境衛生部門の設計職でした。
ところが入社から3年ほど経ち、この部門がメインの工事事業部に吸収されることが決まりました。それに加え、海外赴任の話が伝わってきたのです。今になって考えると、グローバルな業務の経験が出来る上に、技術力を伸ばせるチャンスだったかもしれません。しかし、当時の私には婚約者がおり、今ほど渡航が簡単な時代ではなかったことも相俟って、長期に亘る海外赴任は避けたいという強い思いがありました。

そこで転職を決意し地元に帰って職安に行ったところ、紹介されたのが文化シヤッター南九州支店の設計職だったのです。現在の妻である婚約者には、東京に本社があるから数年で東京勤務になると言いましたが、その後なんと50歳になるまで鹿児島にある南九州支店に勤務することになりました。

* 1973年に発生した、原油の供給逼迫と価格高騰による経済の世界的混乱

最初は設計職としての入社だったのですね。


設計職として入社しましたが、営業職には自ら手を上げ異動しました。営業活動では高専で培った工学的な分析を駆使して、業績を伸ばしました。

そうです。シャッターの機構等についてはまったく分かってはいませんでしたが、高専で培った機械関連の知識と、前職での設計スキルがありましたから、先輩が異動した後に同期入社の新人設計職3名のリーダーを任されました。それから3年ほど経ったある日、支店長に「南九州支店の業績を拡大したい、設計職の中から1人を営業職に配置転換したい」と相談され、私の後に入った新入社員を異動させると言われました。その時に私は、「今の彼にはまだ無理です。どうしても営業を増やすのなら私がします!」と伝えたのです。それが、私が営業畑を歩む転機となりました。

営業職について、当時の私には大きな誤解がありました。メーカーの直販営業は地元の販売代理店よりも値引きが難しくないだろうから、設計事務所や建築会社に足を運べば、簡単に注文が取れると考えていたのです。ところが、それは大間違い。地方では営業が他のエリアに異動しない販売代理店の方が信用は厚く、製造元の営業部隊とは言え、そこに割って入るのが難しかったのです。私は、その壁を乗り越えるために、営業活動を工学的に捉え、最適な営業提案のプロセスの整備に加え、人の心を動かすコミュニケーションについても考えました。
そのために経営工学のみならず心理学も勉強しました。このセールスエンジニアリングとして捉え直した私流の営業活動は効果を表し、やがて業績は安定。南九州エリアでのシェアも着実に高めていきました。当時は意識しませんでしたが、高専時代に学んだ機械工学の考え方や、先生方を始めとする上級生も含めた様々な在校生たちとの出会いが活きたのだと今になって思います。

高専では様々な出会いがあり、人との絆を深める極意を身に付ける。

高専時代で印象に残っていることを教えて下さい。


小倉社長が5年間学んだ鹿児島工業高等専門学校。高専では勉学以外にも多くの事を学び、特に年齢の離れた先輩、後輩、先生との付き合い方が社会人になっても活かされました。

まず、高専に入学しようと思った理由は、私は数学が得意だったことと、親しい友人の「高専に入学してエンジニアを目指す」という言葉が心に響いたからです。CADの無い時代ですから、私も大きな図面を描いてみたいと思ったのです。開発等のものづくりにも興味があったため、機械工学科を選びました。授業料が低かったのも魅力でした。

入学して驚いたのは、20歳の5年生の先輩が、かなり年上に見えたことです。そんな先輩たちと、寮生活やクラブ活動、一部の授業等で深く関わったことは良い勉強になりました。5歳も年齢が離れると、背格好ばかりか価値観も知識量も大きく異なります。先輩方それぞれの考え方に触れ、様々な見方があることを知ることが出来ました。
この経験は、社会人になってから大いに役立ちました。社会人になり仕事を進めていると、大半の接しやすい先輩や上司の中に、苦手な先輩がどうしても1人や2人、目の前に現れます。その人が異動になっても、また別の苦手な人が現れます。その一方で、苦手だったはずの先輩に後に助けられたり、会話が弾んで同調したことが何度もありました。要は、自分が先輩の苦手な面にどう向き合うかが重要だと気づき、その後は人との間にストレスを感じることは無くなりました。
そうした人付き合いを冷静に考えて対処するようになれたのは、私が5人兄弟であることが原点です。特に2人の個性の違う兄のどちらにも上手くコミュニケーションを取るように日頃から工夫した子ども時代を送ってきた影響が大きいと言えるでしょう。そして、その人付き合いの工夫は、多くの先輩、後輩、先生方に巡り合った高専時代に磨かれたのです。実際に、20歳の時に前職の会社に新卒入社しましたが、年上となる22〜23歳の大学卒同期や24〜25歳の大学院卒同期とも違和感なくコミュニケーションを取ることが出来ました。これも、高専の時に4歳も5歳も離れた先輩たちと年齢を超えた付き合いをしてきたからだと思います。

鹿児島高専ではどのような授業や課外活動を体験しましたか。

授業は厳しく、居眠りをしただけで単位を与えない先生もいました。実験・実習もしっかりとこなさなければなりません。しかしその分、教授陣のレベルもとても高かったと思います。数学の若松先生は、東の矢野、西の若松と、日本の数学界を牽引してきた矢野健太郎* 先生と並び称されるような存在でしたし、金属材料学の先生は教え方がユニークで難しい内容でも理解が進みました。
校内に寮があり、通学に時間がかからないこともあって自由時間は多く、何と言っても、受験勉強にたくさんの時間を割く必要が無いことが大きかったように思います。専門性を極める勉強のための時間に加え、10代後半の多感な時期に自由に思索を巡らす時間が充分にありました。

クラブ活動に関しては、最初は空手部に入ったのですが練習の怪我により退部し、その後に野球の同好会を立ち上げました。中学時代に本格的に野球に取り組んできたメンバーが少なかったこともあり、実力の近い中学校の野球部に試合を申し込んだりしました。体育祭では、学科の1年生から5年生までが1つのチームとなり、学科対抗で競うことから、一丸になれたのも思い出深いですね。今も鹿児島高専に続いている「櫓絵(やぐらえ)」** も強く印象に残っています。

* 微分幾何学の第一人者。東京工業大学名誉教授。アインシュタインと親交が深かったことでも知られる。
** 巨大な板に描いた絵をやぐらに立てかけ、競技の応援に使用するとともに、その絵自体の出来栄えも表彰の対象となる、鹿児島高専の伝統。
※体育祭の様子は鹿児島高専の取材記事を参照下さい。

不幸の中に幸福に至るヒントが隠されている。

小倉社長が現在のキャリアを築くことになった理由をどのようにお考えですか。


本社ビルにある「先人の碑」。創業以来、物故した同社グループ関係者の霊を慰め、同時に感謝の意を表わしています。
毎月の営業初日には、当月の命日を迎えられる方々を偲ぶ献花式を行っています。また、毎年その1年の内に亡くなった関係者のご家族を招き、食事会などでおもてなしする先人感謝祭を開いています。

南九州支店長を50歳まで務めた私は、その後に中四国支社長、執行役員九州支社長を歴任し、取締役常務執行役員等を経て、2021年に代表取締役社長に就任しました。責任者を担当した部門で業績を伸ばしてきたという自負は持っていますが、私は現職に就いた1番の理由は「運」だと考えています。しかし、その運を呼び込むのはその人次第であり、更に言えば、運を持ち込んでくれるのは、私と関わった人たち全てです。

私は目の前の不幸や失敗を単純に残念だとは捉えません。その中に幸福につながる何らかのきっかけが必ず隠れているからです。例えば受注に失敗したら、その原因を探る中で足りなかったことが見えてきます。そこで得た気づきを次の商機に活かせば良いのですから、大きく落ち込む必要はありません。
このことは仕事のみならず、人生のあらゆる場面に共通します。そうしたポジティブな考え方をする人間に、周囲の人たちが集まってきます。最初から気が合う人も、苦手な人も、様々な気づきや幸福に至る機会をもたらしてくれるのです。

私はそうして南九州支店で多くの仕事仲間やお客様と出会って業績を伸ばしました。この商売は、営業が商談を行なって見積もりし、設計担当が図面を仕上げ、工場のスタッフが製作し、それを配送する人がいて、現場では工事を進め、検査を行い、検収頂いてから集金となります。この一連の工程を気持ちよくバトンタッチしていくには、感謝と謙虚の気持ちが必要になります。この感謝と謙虚が持てるのは、“例え面倒なことや難しいことがあっても、その中に次につながる何かがあるはずだ”というポジティブな考えがあるからこそです。独自のセールスエンジニアリングで成功した南九州支店長以降の役職でも業績を伸ばすことが出来たのは、私のこうした姿勢が多くの部下に支持されたからでしょう。そして社長への抜擢にもつながったのではないでしょうか。

失敗や挫折を恐れずにチャレンジして欲しい。

高専生に対する応援メッセージをお願いします。


於 本社12階応接室前ロビー。
高専生には、何事にも恐れずにチャレンジして、たくさんの失敗や挫折を経験して欲しい。

尊敬する稲盛和夫さんも失敗の中から学ぶことは多いと著作で書かれていますが、高専生の皆さんは高専生活を目一杯頑張って、その中でたくさんの失敗や挫折を経験して下さい。その中からきっと、未来につながる大切な何かを得られるはずです。もし目の前の事象に困惑したり悩んだりしていても、逃げ出すことがなければ、いずれは必ず良い結果につながるはずです。幸い、高専にはそうしたチャレンジの機会が溢れています。高度な授業、実習、実験に加え、各種高専コンテストや寮生活、海外交流、部活動と、普通高校では得難い体験や経験が可能です。
5年間があっと言う間だったと思えるような充実した時間を持つことが出来れば、社会に出てから大きく羽ばたくことが出来るでしょう。

本日はお忙しい中、長時間に亘りご協力頂き、ありがとうございました。

「ロボたちの帰還」を「Jump to the Future」の視点で考える
徳山高専 准教授 藤本 浩 先生


2024年度高専ロボコンのテーマは、「ロボたちの帰還」となり、月面探査機SLIMなどをモチーフに設定されたであろう難易度の高い競技ルールとなりました。

4月17日に2024年度の高専ロボコンのテーマ「ロボたちの帰還」が公開されました。ロボットが接地禁止ゾーンを越えて狙った場所に着地、オブジェクトを回収しそれを元の場所に持ち帰るという競技で、月面探査機SLIMの「ピンポイント着陸」や、はやぶさ2の「サンプルリターン」などをモチーフに設定されているようです。

この記事が公開される頃には全国の高専生のアイデアは既にロボコン事務局の方へ提出が完了していることと思いますので、あえてこのタイミングで過去唯一ロボットを飛ばすことを競技ルールとした1999年の「Jump to the Future」(ジャンプ・トゥ・ザ・フューチャー)と、この競技においてロボコン大賞に選んで頂いた「Fly Do ポテットS」の製作背景を通して「ロボ達の帰還」が如何に難易度の高い競技であるか考えてみたいと思います。


1999年の「Jump to the Future」(ジャンプ・トゥ・ザ・フューチャー)のフィールド図面。2024年度高専ロボコンのテーマの「ロボたちの帰還」と同じく、過去唯一ロボットを飛ばす、難易度の高いルールでした。

先に「Jump to the Future」競技について少し触れておきます。この競技は競技フィールドに置かれた15個の「箱」をフィールド中央にある高さ700mm幅3000mmの山に触れずに飛び越えてポイントゾーンへ運び、3分間でポイントゾーンにいかに多く「箱」を運ぶか、または「Vスポット」と呼ばれる高さ250mmの台に「箱」を置いた時点でそのチームの勝ちとなります。 そのため、この競技においては、如何に素早く山に触れずにポイントゾーンに到達できるかが勝敗を分けるキーポイントになります。

これより前の大会ではロボットを飛ばした競技はなかったため、飛ばし方も新たに考える必要がありました。加えて最大の問題は着地した後にロボットが壊れるのではないかという点でした。従って、これらをどのようにして克服するかがロボット開発の焦点となりました。
その際に出たアイデアとしては、ロボットを落下(着地)の衝撃から守る素材で作った球体で囲むことや、ハングライダーのような三角の翼を設ける、パラシュートを備える、そもそもロボット自体を軽量化した上で壊れない程度の剛性を持たせて投げるなどがあり、これらについて様々な検討がなされました。
しかし、ロボット自身を小型軽量化して衝撃吸収素材をまとわせるにしても、着地後に170mm×230mm×220mmの箱を扱う機能を持たせるには小型化に限界があり、試合を重ねる毎に壊れる確率も急速に高くなると予想されること。ハンググライダーのように滑空させるにしてもロボットの制限サイズ程度の翼面積では必要な揚力を期待できないこと。パラシュート方式にしてもかなり高くまでロボットを打ち上げないと着地までにその効果が得られないこと。など何れのアイデアも常識の方法では行き詰まってしまいました。


飛ばし方や着地方法などこれまでにない課題を、傘のアイデアにより克服し、この大会で見事にロボコン大賞となった「Fly Do ポテットS」。

そのような中、メンバー達とアイデアの話をしているときに私はふと幼少期に傘を持って棚田から飛び降りて遊んでいたことを思い出しました。小学生の頃は痩せていたこともあり体重はロボットの総重量とさほど変わらない30Kg程度だったと思いますが、体感的に落下速度を軽減することができたように記憶していました。
早速そのことをメンバーに伝えたところ、メンバーの殆どが同じく傘を持って飛び降りた経験があったことから、傘を使えば翼とパラシュートの機能を両立できるのではないかと全員のイメージが一致して、これをアイデアとしたロボットの開発がスタートしました。

まず取り組んだのは、利用する傘でどの程度の落下減速効果があるのか、定量的ではなくても目視により感覚的に落下の状態を把握したかったので、校舎の2Fから屋外へ延びる高さ8mの渡り廊下から、子機を想定した重さの重りを付けた雨傘を何度も落下させてその様子を観察しました。
その結果、雨傘では落下の減速は見られたものの満足できるほどのものではありませんでした。落下の途中で傘がお猪口(ちょこ)のようにひっくり返ることもしばしばありました。原因は傘の面積と骨の強度にありましたが学生達は実験を重ねるうちに徐々にこのアイデアに対する自身を失い、このアイデアを選択したことを後悔しているように私には見えました。

ある時、「このままこのアイデアを続けて打開策が見つからなければロボットの完成はないので別のアイデアに切り換えようか。」とメンバーに打診したところ、帰ってきた返事は「このアイデアで行きます。」でした。
実験を繰り返している様子や表情から諦めかけていると思っていたこともあったので、諦めていない強い意思表示が帰ってきたので正直驚きました。それから先は、迷いなくアイデアの実現に向けての試行錯誤を繰り返しました。


傘を使うアイデアの実証実験を行いました。子機を想定した重さの重りを付けた雨傘を何度も落下させてその様子を観察しました。実験では良い結果がなかなか出ませんでしたが、メンバーの強い意志であきらめず試行錯誤が続きました。

傘による落下の減速効果はこれまでの実験で確かめられていましたので、あとはこのアイデアの要件を満たす傘をどう調達するかということでした。
もし、世の中に存在しなければ自作することも覚悟していました。そのような中、たまたまゴルフ好きの友人宅にお邪魔する機会がありました。すると玄関先に通常の雨傘の1.5倍はある大きな傘が立て掛けてありました。
その傘はゴルフ用の傘で、骨組みはガラス繊維とカーボンファイバーで構成されていて軽い上に非常に丈夫にできていました。ゴルフをしない私にとってそれは「棚からぼた餅」的な出会いではありましたが、それを目にしたときにアイデアの壁を一つ乗り越えた高揚感がありました。
早速、メンバーにこの傘の存在を伝えて入手したゴルフ傘での落下実験を行ったところ、傘はお猪口になることなく落下の減速に対しても高い効果を発揮しました。こうしてメンバーの脳裏にはロボットの完成イメージが描かれ、一気にロボットの完成に向かって突き進みました。

ついに完成したロボットは傘を翼とした子機(8Kg)を親機に搭載しておき、ポンプで加圧した空気を自作のエアシリンダーに送って丸ゴムチューブを引き延ばした後に、そのゴムの収縮力を利用して子機を打ち出す方式となりました。
この時、伸張したエアシリンダーは子機の発射用スロープともなります。傘を翼として利用した実例を他で見聞したことがなかったことから、打ち出された子機の飛行姿勢がどのようになるのか大きな不安がありましたが、実験は予想以上に安定した飛行姿勢と衝撃の極めて少ない着地を見事に実証してくれました。
飛行姿勢の安定化の要因はもう一つあって、当時は有線コントロールだったので有線の重量が飛行姿勢に与える影響が問題となりますが、親機、子機それぞれに電源を設けて非常に軽い樹脂製の光ファイバーによる通信線1本で両機をコントロールするようにしたため、子機の飛行姿勢を損ねることはありませんでした。


第12回全国大会結果(1999年)。「Fly Do ポテットS」は、全国大会では優勝出来ませんでしたが、傘のアイデアが評価されて栄えあるロボコン大賞に選ばれました。

「Fly Do ポテットS」は地方大会で圧勝、全国大会では乾燥が原因と思われる箱サイズの縮小に、着地をした際に子機が抱えていた箱が前方に滑り出してしまい、優勝には手が届きませんでした。
しかし、傘を利用したアイデアが評価されてロボコン大賞に選ばれました。あの時、学生達が傘のアイデアを諦めていたらこの受賞はありえませんでした。いつもながら学生達の諦めない気持ちには頭が下がります。

さて、話を「ロボたちの帰還」に戻します。「Jump to the Future」と大きく違うのはロボットが接地禁止ゾーンを超えるところまでは良いのですが、再び接地禁止ゾーンを超え戻ってくるところにあります。私の経験ではロボットに回転翼が使用できない、ペットボトルに蓄積した圧縮空気の利用ができないなどルール上の機構的な制約があるため、先に紹介したようにロボットは障害物を飛び越えることを最も苦手とします。
加えて1チーム2台以上のロボットを製作するルールとなっています。今年度より地方大会の開催期日が早まり、最も早いところでは9月22日と高専では夏休み中に開催されます。夏休みの製作期間が短くなるのは痛手で、メンバーの少ない高専のチームは時間制約との戦いともなります。過去に例を見ない程の難易度の高い競技ルールを如何に攻略するか、常識に捕らわれない発想の転換が求められる競技に高専生はどんな答えを見いだすのか、本記事が少しでも参考になれば幸いです。


NHK学生ロボコンは国際大会であるABUロボコンの予選会でもあります。これらの大会は、スピード重視であり優勝ありきである大会に対して、高専ロボコンはアイデア勝負というところです。
学生たちの奇抜なアイデアによって、高専ロボコンはいつの時代も新鮮な大会となっています。


この記事を執筆している最中に大学生向けに開催されるNHK学生ロボコン2024の配信がありました。高専ロボコンと大きく異なるところをあえて言うなら「優勝しなければ価値が無い」というところです。
従って、競技はスピード重視であり高専ロボコンよりも奇抜なアイデアが出にくいと言えます。しかし、これらの技術はスピードと高度な制御技術を盛り込んでいることから社会実装の実体に近いとも言えます。

2002年からNHK学生ロボコンは国際大会であるABUロボコン(ABU Asia-Pacific Robot Contest)の予選会を兼ねることになりました。この大会で優勝すればABUロボコンに駒を進めることができるのですが、優勝を争う常連の大学として、豊橋技術科学大学(以下、豊橋技科大)(優勝9回)、東京大学(以下、東大)(優勝7回)があります。
今年は豊橋技科大が東大を破って優勝に輝き、NHK学生ロボコン初の3連覇を成し遂げました。それぞれのチームのロボットはいずれも素晴らしく優劣付けがたいロボットでした。勝敗を分けたのは連戦を勝ち抜いた末のロボットの安定感の善し悪しでした。

優勝した豊橋技科大はその構成メンバーの多くに高専ロボコン経験者がいます。私のチームの歴代OBもその中の一人として活躍してきました。
ある時、帰省したOBとで東大チームと豊橋技科大チームとの違いについて話題にしたことがあり、それぞれが勝っているところは何かと訪ねたところ「東大は偏差値と財力、豊橋技科大は高専ロボコンでの経験値。」と答えたことがあります。
少し話題を面白くした面もあると思いますが、今年の優勝戦を見て改めてこのときの話題を思い出しました。実践を学びとする経験値が勝敗を分けたように私には見えました。







藤本 浩
徳山工業高等専門学校 機械電気工学科 嘱託准教授
創造・特許教育を担当、二重螺旋ポンプ、電動車椅子用着脱可能な安全停止装置、乳幼児うつぶせ寝検出装置など数々の開発及び応用と、高専ロボコンには1991年開催の第四回大会から指導者として参加し、全国大会優勝、準優勝、ロボコン大賞、技術賞、アイデア賞等幾多の実績を有する。

『SolidWorksによる3次元CAD -Modeling・Drawing・Robocon』(共著)



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(掲載開始日:2024年7月26日)

大島商船高等専門学校の学生が起業!地域密着型サービスで地域を活性化する『株式会社Midmoa』


株式会社Midmoa記者会見様子。津田拳志郎さん(左から二人目)を中心に記者会見が行われました。
大島商船高専では、6月~8月は毎年、ハワイ州カウアイ郡と姉妹島提携を結ぶ周防大島町のアロハキャンペーンに協力して、アロハシャツで仕事をしています。

2024年5月21日、大島商船高等専門学校 情報工学科5年 津田 拳志郎つだ けんしろう さんが代表取締役を務める 株式会社Midmoaミッドモア が設立されました。
設立した企業について2024年6月26日に記者会見が行われました。

津田さんは高専に通いながら、剣道部や詩吟部等で様々な部活動を行い、学生会の副会長や寮長としても経験を積み、同校で文武を問わず体得した豊富な知見を活かし、地域密着型の情報サービスと農業サービスを提供するベンチャー企業を立ち上げました。
起業のきっかけは、「自分の技術やアイデアをカタチにし、社会貢献がしたい」という強い意志があり、高専起業家サミット(※)での成功も、彼の決断を後押ししました。特に商船祭や各種コンテストでの映像制作の経験や作品に対する評価が、彼の起業に繋がる重要な糧となりました。

高専起業家サミットで提案したビジネスプランはこちら

※高専起業家サミット:起業を目指す高専生がビジネスプランの発表・交流を行います。

株式会社Midmoaの事業内容


津田さんの事業についての発表の様子。事業の意義や具体的な事業構想について発表しました。

株式会社Midmoaは、地域の自営業者や個人事業主を支援する情報サービス及び農業サービスを提供することを目指しています。
具体的には、津田さんが映像制作を行った経験を活かし、PR動画やプロモーションビデオの制作、SNSやICT化コンサルティング、フォトグラメトリー(※)による3DCGデータの作成など、幅広いサービスを展開予定です。
また、生成AIを活用した映像・音楽・文章の制作や、スマート農業のフランチャイズ事業も手掛けていきます。

活動の拠点は大島商船高専のある周防大島町すおうおおしまちょうで活動を行います。その理由は、津田さんは高専生活を通じて地域の温かさを感じ、地域の皆様に恩返ししたい気持ちが強くあったからです。
将来的には、周防大島町から山口県全体、さらには日本全国へと事業を拡大する計画です。また、高専起業家サミットでも提案したビジネスプランを引き続き母なる北風研究室との共同研究で研究・開発、商品化を進めていきたいとの意向です。

※フォトグラメトリー(Photogrammetry):複数の写真を使用して物体や環境の正確な3次元モデルを作成する技術。写真を異なる角度から撮影し、それらを解析することで詳細な3Dモデルを生成可能。

あとがき


記者会見後の集合写真。写真右から大島商船高専 校長 藤本 隆士ふじもと たかし 先生。情報工学科5年津田 拳志郎つだ けんしろう さん。情報工学科教授 北風 裕教きたかぜ ひろのり 先生。

高専で培った研究や数多くのコンテストを通じて、起業を志す高専生が年々増加しています。
昨年から、高等専門学校では「高等専門学校スタートアップ教育環境整備事業」という新たな政策が施行され、起業家精神の育成と起業家としての資質や能力の向上を目的としたアントレプレナーシップ教育が一層強化されています。
この政策により、高専生たちは革新的な技術を駆使して社会課題の解決に挑戦し、日本だけでなく世界の経済発展にも貢献することが期待されています。

今後も、高専生たちが新しい技術やアイデアを活用し、起業家として成功することで、地域社会やグローバルな視点での活躍がさらに広がっていくことが期待されます。

(掲載開始日:2024年7月5日)

高等専門学校の特徴や存在意義について、谷口先生のお考えを教えてください。


独立行政法人 国立高等専門学校機構
理事長 谷口 功先生
「東京大学や京都大学等の各国立大学が、平成16年4月に国立大学法人として自立の道を歩み始めました。
同時期に、全国51校の国立高等専門学校は、独立行政法人 国立高等専門学校機構として、新たに再スタートを切りました。」

高等専門学校(以下、高専)は、中学校卒業者を高校入学と同時期に受け入れ、5年間にわたる一貫教育によって高度な専門技術を習得した“人財”を育てる、日本独自の高等教育機関です。
数学、英語、国語等の一般科目とリベラルアーツと呼ばれる教養科目、実験・実習を重視した専門教育をバランス良く行い、大学と同程度の専門的な知識と技術を身につけられるカリキュラムが特徴です。

5年間の本科卒業後に約6割の学生は就職を希望し、極めて高い就職率を継続しています。
就職希望者以外の本科卒業生は、2年間の専攻科に進学してより高度な専門教育を受ける、あるいは技術科学大学をはじめとする四年制大学に編入学、海外の大学等に留学する等、多彩な進路があります。

高専卒業者の特徴的な事例として挙げられるのは、起業家が実に多いことです。
一人でロボットを作る会社を立ち上げた卒業生や、起業に成功した卒業生がまた新たに後進の起業をサポートする会社を立ち上げたケース等、高専で学んだ技術をベースにあらゆる業界・分野において起業を成功させた事例があります。

高専生は、実験や実習を積み重ね、自分の実力に自信を持っているからこそ、積極的に起業へと踏み切れるのではないでしょうか。


経済成長を支える科学・技術の更なる進歩に対応できる技術者を養成していくために、1962年に初めて国立高等専門学校が設立された。
社会が必要とする技術者を養成するために、大学の教育システムとは異なり、中学校卒業生を受け入れ、5年間の本科の教育及び2年間の専門教育が行われる。
独立行政法人 国立高等専門学校機構より引用)

近年、日本経済の活力を取り戻すために、社会の様々な立場の方々が、それぞれアイデアを述べておられます。

国立高等専門学校の設置者である国立高等専門学校機構の理事長を務める私としては、「自らの実力を試したい」と起業する高専卒業生をいっそう応援することのみならず、高専生に限らず誰もがより起業しやすい環境を整えたいと、具体的には失敗しても3回までは大きな経済的ダメージとはならないような支援施策を、国が準備するべきだと考えています。
チャレンジする若者には敗者復活の道が必要なのです。

もちろん、すべての高専生が起業に向いている訳ではありません。
実力を持った高専生には、大卒者と同等の活躍の場を提供することが必要だと思います。
私は立場上、たくさんの企業から「高専生の実力は認めるけれど、なかなか当社に来てくれない」という声をいただきます。
その背景には、高専卒業生を実力に見合った待遇で迎えていない現実があるのも一因だと考えています。

実習や実験、さらには、「ロボコン」に代表される様々なコンテストへの挑戦を通じて実践的な技術を磨いた高専生の実力は、本科の卒業時点で大学の学部卒業生と同等、もしくはそれ以上の力があり、さらに2年間の専攻科を出た高専生は、大学院修了生と同等の実力を持っています。
ですから、初任給も配属も実力に合わせて決定したら良いと、私は考えています。

実際にそうされている企業も少なくはありませんし、高専の卒業生はそういった企業に集中して応募します。
そうした企業は単に給料が良いだけではなく、学歴のみで一律に判断せず個人個人の実力に見合った仕事に取り組ませてもらえるからです。

以上について、私は文部科学省や経団連・経済同友会の方々等と会合する機会がある毎に、積極的に申し上げています。
賛同いただける方や企業が徐々に増えてきていることは、嬉しい限りです。
しかし、まだまだ充分とは言えません。

今の時代だからこそ出来る高専の取り組みについて教えてください。


国立高等専門学校は北海道から沖縄まで全国で51校。産学連携事業にも積極的に取り組み、各地域の産業とも深く結びついている。
独立行政法人 国立高等専門学校機構より引用)

高専生が実験と実習、さらにコンテスト等で鍛えられているのは間違いありませんし、かつて日本の高度成長を支えた「ものづくりに直結する実践的な教育」という役割は、いささかも霞んではいません。
頭と手を同時に使えるように教育訓練された卒業生は、アイデアや理論を具体的な形や製品にする力をもって社会で活躍しているのです。

しかしながら今の時代、どこを切っても同じような金太郎飴のような人材育成では、社会のニーズに応えきれないのも事実です。
そのために全国51校の国立高専では、最低限の学力を保証する目的で、教育の6割に関しては物理・化学・数学等の基礎と専門科目の基礎に関して質の高い指導を実施し、残りの4割に関しては各高専独自の教育を認める「モデルコアカリキュラム」を推進しています。
そうして地域特性に合った教育と高専教育のさらなる高度化を目指しているのです。

また、各高専独自の取り組みとして、産学連携事業も積極的に取り組んでいます。
平成16年に国立高専が国の直接設置機関から独立行政法人に移行したことをきっかけとして、独自の取り組みが随分と自由になりました。
この流れは近年ますます加速しています。
民間企業からの寄付金によって開設される寄付講座もその一つです。これは、寄付の目的に沿った教育研究を行い、地域から求められる技術者の養成を図るものです。

国立高専機構自体も、企業とタッグを組んだ取り組みを幾つかスタートさせています。
大手電子材料会社とは、制御教育に関する技術振興と地域発展に寄与するために、教育研究および人材育成について包括的な協定を締結しました。
それによって、制御技術セミナーの開催や制御技術教育キャンプ、国立高専教員と電子材料会社社員との人材交流等を実現しています。
他にも外資系IT企業とはインターンシッププログラムを、大手重工メーカーとは共同研究や人材交流等の包括連携協定を結んでいます。

新しい取り組みに充分に成功している学校も、まだまだ実績を上げきれていない学校もあります。
国立高専機構としては、社会に貢献できる社会の「財産」としての有為な人「財」として活躍できるように、高専生が産業界と連携・協働できる機会をもっと創れるように、今まで以上に努力する所存です。

グローバル環境の中で、高専の果たす役割についてお聞かせください。


「高専卒業生の奨学金返納率はほぼ100%と聞きます。
産業界で高専生が着実に力を発揮している証左として、心強く思っています。」

近年の高専は、海外にも目を向けています。
人材面を見ても、日本の産業は国内だけに閉じてはいません。
今や製造した工業製品を輸出するだけではなく、企業も現地に製造拠点や販売拠点を設け、日本からも数多くの人材が渡っています。
その流れに高専が貢献しない理由はありません。むしろ、海外においても産業と教育を結ぶ取り組みをリードしていると自負しています。

例えばJICA(独立行政法人 国際協力機構)と、海外における職業教育システムの構築を支援する目的で、国立高専教員の派遣等を行った実績があります。
実際、高度経済成長を支えた日本の高専教育は、世界中の国々から熱い眼差しを向けられています。
現在、国立高専機構はモンゴルとタイにリエゾンオフィスを設けており、ベトナムにも開設の予定です。
最近ではUAEやトルクメニスタン、チュニジア、コロンビア等の教育関係者が来訪されています。
また、教育大臣もしくはそれに準ずる関係者が来訪される国も数多くあります。海外の大学と結んだ包括的学術交流協定は、30校以上に上ります。

外務省からの依頼で、2017年10月にはタイの国会で高専の実務教育について講演してきました。
そこで主張したのは、「高専とは日本独自の成功を収めてきたユニークな教育システムである」ということです。

海外において高専の概略を説明すると、工業大学に類すると捉えられるか、もしくは職業訓練校と誤解されることもあります。
どの国も、その国の既存の教育制度に当てはめようとされるのです。それでは高専教育の本質を充分にご理解いただけません。
そこで、実験と実習、さらに各種のコンテスト等を積み重ねてものづくりの実力を磨く高専は『KOSEN(高専) is KOSEN』であると、他のどのような教育機関とも違う、と述べています。
お陰で、今日では“KOSEN”は国際語として、世界に通じる言葉になりつつあります。
 
日本の高専からの留学や教職員の派遣も進んでいます。
2015年度は約2400名の高専生が研修等の目的で海外に渡航し、約1500名の教職員が学会参加や研修活動の目的で渡航しています。
また、それとは別に、海外に羽ばたく人材の育成を目標に、現在の高専では英語教育にも力を入れています。
もちろん、諸外国からの留学生も受け入れています。

海外で、“KOSEN”が普遍的な存在になる日もそう遠くないのではないでしょうか。

高専の在学生および卒業生へのメッセージをお願いいたします。


国立高等専門学校機構本部 玄関にて

私は東京工業大学を卒業して博士号もいただき、その後は熊本大学の工学部で助教授、教授、工学部長などを経て、学長も務めさせてもらいました。
その熊本時代に、当時の熊本電波高専と八代(やつしろ)高専を熊本高専に統合する議論の陣頭指揮を執って、深く関与しました。

その時に感じたのは、高専生の実力の高さです。
多くの高専生や教職員の能力に触れた時、目を見張るものがありました。

『確かな技術を持った本当に凄い人材が大勢いる』

それが、驚きと共に当時の高専から受けた私の印象です。
この印象は国立高専機構の理事長を務める今、現実として実感し、いっそう確かなものになっています。
そこで私は、国内外で、高専生が目指す技術者は、社会を健康に発展させ、イノベーションを推進する「社会のお医者さん(Social Doctor)」であると言っています。
また、新しい価値を創り出す「クリエイター (Creator)」であるとも言っています。

高専在校生の皆さんは、研鑽に励んで社会に極めて有用な技術を磨いていただきたいと思います。
Social DoctorでありCreatorである高専卒業生の皆さんは、磨いた専門性を背景に社会を牽引する実力を備えているのです。
この事実を誇りとし、未来に向かって力強く歩んでいただきたいと望んでいます。

本日はお忙しい中、長時間に亘りご協力いただき、ありがとうございました。

釧路高専の概要についてご紹介下さい。


釧路工業高等専門学校 正門前

北海道釧路市の西方、たんちょう釧路空港に近い場所に立地する釧路高専は、国立高専4期校として昭和40年に開校。当初は機械工学、電気工学、建築の各学科があり、その後に電子工学と情報工学が加わり、しばらくは5学科体制で高い専門性を持った人材の育成を進めてきました。
ところが時は平成に移り、企業の製品開発や設計において高度化や複合化、融合化が進んだことで、学生時代に学んだ分野の視点だけでは第一線のものづくりの現場で実力が上手く発揮できないという場面が、社会と直結した高等教育機関において問題視されるようになりました。
本校にも、社会に早期に役立つ実践的な技術と創造性を兼ね備えた卒業生を送り出す使命があります。そこで5学科体制を一旦リセットし、抜本的な改組を行うことになったのです。

当時の学校関係者の間では学科の再編案で侃侃諤諤の議論があったそうですが、結果として平成28年に全学生が入学初年度を一般教養科目と専門基礎科目の授業を受け、2年生進学時に学生の全員が広い視野で技術を学ぶことを指向して設置した創造工学科に進むという学科の改組が行われました。
ただ、創造工学科が広くとも浅い知識しか身につけられない学科に陥ってはなりません。しっかりとした専門性が身につくことを担保した上で他の分野の基礎を学べる、そんな工夫が必要です。
そうした配慮から、創造工学科の中に3つのコースを設定しました。情報工学分野と機械工学分野にわたるスマートメカニクスコース、電気工学分野と電子工学分野にわたるエレクトロニクスコース、そして建築デザインコースです。
前2コースの学生は本科の4年間、所属分野で専門性を獲得しつつ、コース内のもう一方の分野についても学び、さらに学科共通科目も受講することで、社会の期待に即した人材となって巣立っていくことになります。
建築デザインコースの学生は、建築設計を軸に街づくりまで視野に収める学びで、学生の指向に応じてゼネコン等に加え鉄道会社など都市開発を担う企業への進路が開けています。

創造工学科を卒業した学生は、開始年度からみてまだまだ少数ですが、開校から実践的な技術を持った人材の輩出を企図して様々な教育施策に取り組んできた本校は、進路先から高い評価を頂いています。
多くの卒業生が活躍する釧路市役所からは公務員試験の受験資格において大学卒業者と同じ扱いを受けており、北海道大学からは北海道内の4高専を対象に約20名の編入推薦枠が認められています。

釧路高専の特徴的な取り組みを教えて下さい。


5学科を3コースに再編し、専門性を担保しつつ企業から求められる高度化や複合化に対応、また、5分野の混合チームで地域課題に取り組む複合融合演習によって、生きた社会実装を体現しています。

創造工学科を設置する背景となった、専門分野の隣接領域にも視野を広げて社会の実情に対応できる人材を育むというコンセプトを推進する取り組みの一つに、複合融合演習があります。
これは、5分野混合チームが現場目線で地域課題の本質を理解し、アイデア創出から試作までを行う、釧路高専独自の社会実装型フィールドワークです。
先般は、防災というテーマで段ボールベッドを開発しました。釧路が面する十勝沖は地震の発生が多いこともあって釧路地域の住民は防災意識が高く、避難先に必要な段ボールベッドの開発は地域ニーズに即したものでした。
当初、学生たちは寝心地の良さを追求。しかし使用する行政側と課題の本質に向けた協議を進めていく中で、平時における収納のしやすさや非常時の組み立てのしやすさも重要であることが判明。学生たちは改良を進め、使用する側の要望に対して十分に応えられるプロトタイプにまで漕ぎ着くことができました。

また、学生たちの日々の学習意欲をモチベートする毎年のイベントとして、4年生を対象にキャリア講演会を行なっています。
その内容は、外部講師に、高専での学びが社会で役立つことを講演してもらうものとなっています。
前回は堀江貴文氏に講演して頂きました。実は、堀江さんが設立した日本初のロケット開発会社であるインターステラテクノロジズ株式会社の本拠地は、釧路市と同じ道東の大樹町(たいきちょう)にあり、そこに本校の卒業生が入社しています。
その卒業生の優秀さを認めた堀江さんが、講師を買って出て頂きました。
講演会当日に堀江さんが語られた「高専生の皆さんが学ばれていることは、すべてロケット開発に必要な技術です」という言葉に、拝聴した学生たちは目を輝かせていました。

地域社会や地域産業、他の高専との連携についてお聞かせ下さい。


日本で唯一民間企業でロケットの打ち上げに成功したインターステラテクノロジズ株式会社やロケットランチャーシステムを担当する地元企業の釧路製作所主催のロケットランチャー製作プロジェクトへの参加をきっかけにロケットランチャープロジェクト部が発足しました。ロケット開発プロジェクトに学生が関与できる本格的なクラブです。

堀江さんのインターステラテクノロジズ株式会社に技術協力している、株式会社釧路製作所という企業があります。本来は橋梁工事が専門ですが、打ち上げプロジェクトにはロケットの発射台設置を精密に調整する技術で参加し、出資もされています。
この釧路製作所には本校からの卒業生が就職していますが、在校生の課外活動にも技術面での協力を頂いており、特にロケットランチャー(※)プロジェクト部が大変お世話になっています。

釧路市に本社を置く食品機械メーカーの株式会社ニッコーにはインターンシップで協力を頂いてますし、卒業生の就職先でも人気です。
同社はロボットシステムの技術に長け、ものづくり日本大賞やロボット大賞などの受賞歴を誇っています。
そもそもは地場の水産加工品産業が海外の加工業者に価格競争で劣勢を強いられ、熟練の加工職人が高齢となり後継者が足りないといった釧路を中心とする道東エリアの重要課題に、設備の自動化やロボティクスで応えていくことによって成長された企業です。
現在は水産業の他にも農業や酪農、観光業、飲食店などあらゆる分野がロボット化する時代を見据え、DX化の推進や省力化を追求されています。
そんな同社において、就職した本校卒業生たちは高専時代に養った技術や思考力を存分に発揮しているようです。

株式会社ニッコーとの共同教育を活かし、創造工学科機械工学分野を中心にロボット技術に注力している本校は、国立高専機構の先端技術教育推進策の一つであるCOMPASS 5.0ロボット分野に、協力校として令和4年度より参画することになりました。
ロボット分野のプロデューサー的人材育成を柱とする教育パッケージを作成し、全国の高専に展開していくプロジェクトが進んでいます。

※小型ロケットの発射装置

釧路高専からはどのような人材が輩出されていますか。

実は、先の株式会社ニッコーの佐藤一雄社長は釧路高専の卒業生です。
同社の、技術で社会問題の解決に立ち向かうという社風は、まさに高専教育と理念が一致していますが、佐藤社長が釧路高専時代に培った「人に役立つものづくりのマインド」を、今も具現化されているといっても過言ではないでしょう。

また、セブンイレブンやイトーヨーカ堂を擁するセブン&アイグループの金融機関であるセブン銀行の松橋正明社長も、釧路高専の出身です。
高専卒業者と大手金融機関の経営者では、イメージが結びつかないかもしれませんが、松橋社長は釧路高専卒業後にNECグループに入社し、図書館の蔵書検索の開発などを経てアイワイバンク(現セブン銀行)に転職されたという経緯です。
その後、流通業の進化の鍵となったATMの企画開発での実績が認められて役員となり、社長に就任されました。優れたエンジニアは経営トップにも立てるという好例ではないでしょうか。

大塚先生のご経歴を簡単に振り返って頂けますか。


講師から長い期間高専で学生を見てきたことから、高専生の能力の高さ、素直さ、勤勉さを充分理解しています。その力を社会や人の役に立ち、喜んでもらおうとする「志」をもって活躍をしてほしいと期待しています。

私も高専で学んだ一人です。卒業したのは東京高専の電子工学科で、東京工業大学に編入学し、工学部電気・電子工学科を卒業後に同大学の大学院理工学研究科博士課程を修了。工学部の助手を経て東京高専の講師に移籍しました。
それから同高専で助教授、教授、副校長を担い、令和4年に現在の釧路高専校長に着任しました。
専門は電気・電子工学で、東工大では高温超伝導薄膜の作成やアナログLSIの自動設計CADの開発、動画圧縮符号・復号用LSIの開発などに関する研究を行い、東京高専の研究者・指導担当としては指紋認証や虹彩認証、AI画像認識などに取り組んでいました。

振り返ってみますと、私の経歴は人とのご縁が大きな意味を持っているように思えます。
高専に転職したのは、高専時代の恩師に勧められたのがきっかけですし、釧路高専とも以前から縁がありました。
3代前の釧路高専校長である岸浪建史先生とは、今から10年前に高専の会議を通して知り合い、釧路高専で実践されている地域と一緒に学生を育てる活動を先生から直にお聞きし、薫陶を受けていたのです。

高専の在校生及び卒業生へのメッセージをお願いします。

高専は大学受験に労力を割く必要が無く、時間をたっぷり使って授業では頭を使って考えながら知識を蓄え、実験や実習では手を動かして結果を目で確かめることによる経験を得ることができます。
この知識と経験が合わさって、実践的に役立つ「知恵」を養えることができると私は考えます。
就職して、企業の製品開発上の課題や、それを取り巻く社会の難題に突き当たった時に、突破力をもたらすのはこの「知恵」に他なりません。
高専で学ぶ在校生は知恵という突破力を獲得することができ、卒業された皆さんには、すでに備わっているはずです。

それに加えて必要なのは、努力を厭わず人に役立ちたい、喜んでもらいたいという、「 志 」です。
クルマに例えるなら、知識や技術はボディやタイヤ。「 志 」はエンジンです。成長を促し、壁を乗り越える力となる「 志 」を確かに持って、輝ける未来を歩んで下さい。

本日はお忙しい中、長時間に亘りご協力頂き、ありがとうございました。

営業に機械工学や経営工学的な考えを取り入れ、業績アップ。

鹿児島高専を卒業後、文化シヤッターに入社された経緯を教えて下さい。


南九州支店営業課長時代(1989年)。
数年で転勤するだろうと考えていましたが、50歳になるまで同支店で勤務することになります。

鹿児島高専の機械工学科に在籍していた私は、4年生の時に大阪に本社のある大手空調機器メーカーのインターンシップに参加しました。オイルクーラーの試験設備のある部門で、そこで3週間ほど試験のお手伝いをしていたのですが、当時の指導社員の方から、卒業後は是非うちに来てほしいと言われました。私も会社の雰囲気がとても気に入ったので、その気になっていたところ、5年生の就活時期の直前に第1次オイルショック* が勃発し、その会社の新卒採用は取り止めになってしまいました。私は慌てて高専の先生に相談し、東京の空調設備工事会社への就職を紹介して貰いました。

そうして何とか就職した会社では、入社直後に3ヶ月に亘る新人研修があり、そこで様々な部門の部長からの部署紹介がありました。仕事内容を説明する講師となりつつ、自部署への配属のアピールを行うのです。そして私が手を挙げて志望したのは、同期たちの人気を集めた主流部門ではなく、汚水処理設備を担う不人気の環境衛生部門の設計職でした。
ところが入社から3年ほど経ち、この部門がメインの工事事業部に吸収されることが決まりました。それに加え、海外赴任の話が伝わってきたのです。今になって考えると、グローバルな業務の経験が出来る上に、技術力を伸ばせるチャンスだったかもしれません。しかし、当時の私には婚約者がおり、今ほど渡航が簡単な時代ではなかったことも相俟って、長期に亘る海外赴任は避けたいという強い思いがありました。

そこで転職を決意し地元に帰って職安に行ったところ、紹介されたのが文化シヤッター南九州支店の設計職だったのです。現在の妻である婚約者には、東京に本社があるから数年で東京勤務になると言いましたが、その後なんと50歳になるまで鹿児島にある南九州支店に勤務することになりました。

* 1973年に発生した、原油の供給逼迫と価格高騰による経済の世界的混乱

最初は設計職としての入社だったのですね。


設計職として入社しましたが、営業職には自ら手を上げ異動しました。営業活動では高専で培った工学的な分析を駆使して、業績を伸ばしました。

そうです。シャッターの機構等についてはまったく分かってはいませんでしたが、高専で培った機械関連の知識と、前職での設計スキルがありましたから、先輩が異動した後に同期入社の新人設計職3名のリーダーを任されました。それから3年ほど経ったある日、支店長に「南九州支店の業績を拡大したい、設計職の中から1人を営業職に配置転換したい」と相談され、私の後に入った新入社員を異動させると言われました。その時に私は、「今の彼にはまだ無理です。どうしても営業を増やすのなら私がします!」と伝えたのです。それが、私が営業畑を歩む転機となりました。

営業職について、当時の私には大きな誤解がありました。メーカーの直販営業は地元の販売代理店よりも値引きが難しくないだろうから、設計事務所や建築会社に足を運べば、簡単に注文が取れると考えていたのです。ところが、それは大間違い。地方では営業が他のエリアに異動しない販売代理店の方が信用は厚く、製造元の営業部隊とは言え、そこに割って入るのが難しかったのです。私は、その壁を乗り越えるために、営業活動を工学的に捉え、最適な営業提案のプロセスの整備に加え、人の心を動かすコミュニケーションについても考えました。
そのために経営工学のみならず心理学も勉強しました。このセールスエンジニアリングとして捉え直した私流の営業活動は効果を表し、やがて業績は安定。南九州エリアでのシェアも着実に高めていきました。当時は意識しませんでしたが、高専時代に学んだ機械工学の考え方や、先生方を始めとする上級生も含めた様々な在校生たちとの出会いが活きたのだと今になって思います。

高専では様々な出会いがあり、人との絆を深める極意を身に付ける。

高専時代で印象に残っていることを教えて下さい。


小倉社長が5年間学んだ鹿児島工業高等専門学校。高専では勉学以外にも多くの事を学び、特に年齢の離れた先輩、後輩、先生との付き合い方が社会人になっても活かされました。

まず、高専に入学しようと思った理由は、私は数学が得意だったことと、親しい友人の「高専に入学してエンジニアを目指す」という言葉が心に響いたからです。CADの無い時代ですから、私も大きな図面を描いてみたいと思ったのです。開発等のものづくりにも興味があったため、機械工学科を選びました。授業料が低かったのも魅力でした。

入学して驚いたのは、20歳の5年生の先輩が、かなり年上に見えたことです。そんな先輩たちと、寮生活やクラブ活動、一部の授業等で深く関わったことは良い勉強になりました。5歳も年齢が離れると、背格好ばかりか価値観も知識量も大きく異なります。先輩方それぞれの考え方に触れ、様々な見方があることを知ることが出来ました。
この経験は、社会人になってから大いに役立ちました。社会人になり仕事を進めていると、大半の接しやすい先輩や上司の中に、苦手な先輩がどうしても1人や2人、目の前に現れます。その人が異動になっても、また別の苦手な人が現れます。その一方で、苦手だったはずの先輩に後に助けられたり、会話が弾んで同調したことが何度もありました。要は、自分が先輩の苦手な面にどう向き合うかが重要だと気づき、その後は人との間にストレスを感じることは無くなりました。
そうした人付き合いを冷静に考えて対処するようになれたのは、私が5人兄弟であることが原点です。特に2人の個性の違う兄のどちらにも上手くコミュニケーションを取るように日頃から工夫した子ども時代を送ってきた影響が大きいと言えるでしょう。そして、その人付き合いの工夫は、多くの先輩、後輩、先生方に巡り合った高専時代に磨かれたのです。実際に、20歳の時に前職の会社に新卒入社しましたが、年上となる22〜23歳の大学卒同期や24〜25歳の大学院卒同期とも違和感なくコミュニケーションを取ることが出来ました。これも、高専の時に4歳も5歳も離れた先輩たちと年齢を超えた付き合いをしてきたからだと思います。

鹿児島高専ではどのような授業や課外活動を体験しましたか。

授業は厳しく、居眠りをしただけで単位を与えない先生もいました。実験・実習もしっかりとこなさなければなりません。しかしその分、教授陣のレベルもとても高かったと思います。数学の若松先生は、東の矢野、西の若松と、日本の数学界を牽引してきた矢野健太郎* 先生と並び称されるような存在でしたし、金属材料学の先生は教え方がユニークで難しい内容でも理解が進みました。
校内に寮があり、通学に時間がかからないこともあって自由時間は多く、何と言っても、受験勉強にたくさんの時間を割く必要が無いことが大きかったように思います。専門性を極める勉強のための時間に加え、10代後半の多感な時期に自由に思索を巡らす時間が充分にありました。

クラブ活動に関しては、最初は空手部に入ったのですが練習の怪我により退部し、その後に野球の同好会を立ち上げました。中学時代に本格的に野球に取り組んできたメンバーが少なかったこともあり、実力の近い中学校の野球部に試合を申し込んだりしました。体育祭では、学科の1年生から5年生までが1つのチームとなり、学科対抗で競うことから、一丸になれたのも思い出深いですね。今も鹿児島高専に続いている「櫓絵(やぐらえ)」** も強く印象に残っています。

* 微分幾何学の第一人者。東京工業大学名誉教授。アインシュタインと親交が深かったことでも知られる。
** 巨大な板に描いた絵をやぐらに立てかけ、競技の応援に使用するとともに、その絵自体の出来栄えも表彰の対象となる、鹿児島高専の伝統。
※体育祭の様子は鹿児島高専の取材記事を参照下さい。

不幸の中に幸福に至るヒントが隠されている。

小倉社長が現在のキャリアを築くことになった理由をどのようにお考えですか。


本社ビルにある「先人の碑」。創業以来、物故した同社グループ関係者の霊を慰め、同時に感謝の意を表わしています。
毎月の営業初日には、当月の命日を迎えられる方々を偲ぶ献花式を行っています。また、毎年その1年の内に亡くなった関係者のご家族を招き、食事会などでおもてなしする先人感謝祭を開いています。

南九州支店長を50歳まで務めた私は、その後に中四国支社長、執行役員九州支社長を歴任し、取締役常務執行役員等を経て、2021年に代表取締役社長に就任しました。責任者を担当した部門で業績を伸ばしてきたという自負は持っていますが、私は現職に就いた1番の理由は「運」だと考えています。しかし、その運を呼び込むのはその人次第であり、更に言えば、運を持ち込んでくれるのは、私と関わった人たち全てです。

私は目の前の不幸や失敗を単純に残念だとは捉えません。その中に幸福につながる何らかのきっかけが必ず隠れているからです。例えば受注に失敗したら、その原因を探る中で足りなかったことが見えてきます。そこで得た気づきを次の商機に活かせば良いのですから、大きく落ち込む必要はありません。
このことは仕事のみならず、人生のあらゆる場面に共通します。そうしたポジティブな考え方をする人間に、周囲の人たちが集まってきます。最初から気が合う人も、苦手な人も、様々な気づきや幸福に至る機会をもたらしてくれるのです。

私はそうして南九州支店で多くの仕事仲間やお客様と出会って業績を伸ばしました。この商売は、営業が商談を行なって見積もりし、設計担当が図面を仕上げ、工場のスタッフが製作し、それを配送する人がいて、現場では工事を進め、検査を行い、検収頂いてから集金となります。この一連の工程を気持ちよくバトンタッチしていくには、感謝と謙虚の気持ちが必要になります。この感謝と謙虚が持てるのは、“例え面倒なことや難しいことがあっても、その中に次につながる何かがあるはずだ”というポジティブな考えがあるからこそです。独自のセールスエンジニアリングで成功した南九州支店長以降の役職でも業績を伸ばすことが出来たのは、私のこうした姿勢が多くの部下に支持されたからでしょう。そして社長への抜擢にもつながったのではないでしょうか。

失敗や挫折を恐れずにチャレンジして欲しい。

高専生に対する応援メッセージをお願いします。


於 本社12階応接室前ロビー。
高専生には、何事にも恐れずにチャレンジして、たくさんの失敗や挫折を経験して欲しい。

尊敬する稲盛和夫さんも失敗の中から学ぶことは多いと著作で書かれていますが、高専生の皆さんは高専生活を目一杯頑張って、その中でたくさんの失敗や挫折を経験して下さい。その中からきっと、未来につながる大切な何かを得られるはずです。もし目の前の事象に困惑したり悩んだりしていても、逃げ出すことがなければ、いずれは必ず良い結果につながるはずです。幸い、高専にはそうしたチャレンジの機会が溢れています。高度な授業、実習、実験に加え、各種高専コンテストや寮生活、海外交流、部活動と、普通高校では得難い体験や経験が可能です。
5年間があっと言う間だったと思えるような充実した時間を持つことが出来れば、社会に出てから大きく羽ばたくことが出来るでしょう。

本日はお忙しい中、長時間に亘りご協力頂き、ありがとうございました。

「ロボたちの帰還」を「Jump to the Future」の視点で考える
徳山高専 准教授 藤本 浩 先生


2024年度高専ロボコンのテーマは、「ロボたちの帰還」となり、月面探査機SLIMなどをモチーフに設定されたであろう難易度の高い競技ルールとなりました。

4月17日に2024年度の高専ロボコンのテーマ「ロボたちの帰還」が公開されました。ロボットが接地禁止ゾーンを越えて狙った場所に着地、オブジェクトを回収しそれを元の場所に持ち帰るという競技で、月面探査機SLIMの「ピンポイント着陸」や、はやぶさ2の「サンプルリターン」などをモチーフに設定されているようです。

この記事が公開される頃には全国の高専生のアイデアは既にロボコン事務局の方へ提出が完了していることと思いますので、あえてこのタイミングで過去唯一ロボットを飛ばすことを競技ルールとした1999年の「Jump to the Future」(ジャンプ・トゥ・ザ・フューチャー)と、この競技においてロボコン大賞に選んで頂いた「Fly Do ポテットS」の製作背景を通して「ロボ達の帰還」が如何に難易度の高い競技であるか考えてみたいと思います。


1999年の「Jump to the Future」(ジャンプ・トゥ・ザ・フューチャー)のフィールド図面。2024年度高専ロボコンのテーマの「ロボたちの帰還」と同じく、過去唯一ロボットを飛ばす、難易度の高いルールでした。

先に「Jump to the Future」競技について少し触れておきます。この競技は競技フィールドに置かれた15個の「箱」をフィールド中央にある高さ700mm幅3000mmの山に触れずに飛び越えてポイントゾーンへ運び、3分間でポイントゾーンにいかに多く「箱」を運ぶか、または「Vスポット」と呼ばれる高さ250mmの台に「箱」を置いた時点でそのチームの勝ちとなります。 そのため、この競技においては、如何に素早く山に触れずにポイントゾーンに到達できるかが勝敗を分けるキーポイントになります。

これより前の大会ではロボットを飛ばした競技はなかったため、飛ばし方も新たに考える必要がありました。加えて最大の問題は着地した後にロボットが壊れるのではないかという点でした。従って、これらをどのようにして克服するかがロボット開発の焦点となりました。
その際に出たアイデアとしては、ロボットを落下(着地)の衝撃から守る素材で作った球体で囲むことや、ハングライダーのような三角の翼を設ける、パラシュートを備える、そもそもロボット自体を軽量化した上で壊れない程度の剛性を持たせて投げるなどがあり、これらについて様々な検討がなされました。
しかし、ロボット自身を小型軽量化して衝撃吸収素材をまとわせるにしても、着地後に170mm×230mm×220mmの箱を扱う機能を持たせるには小型化に限界があり、試合を重ねる毎に壊れる確率も急速に高くなると予想されること。ハンググライダーのように滑空させるにしてもロボットの制限サイズ程度の翼面積では必要な揚力を期待できないこと。パラシュート方式にしてもかなり高くまでロボットを打ち上げないと着地までにその効果が得られないこと。など何れのアイデアも常識の方法では行き詰まってしまいました。


飛ばし方や着地方法などこれまでにない課題を、傘のアイデアにより克服し、この大会で見事にロボコン大賞となった「Fly Do ポテットS」。

そのような中、メンバー達とアイデアの話をしているときに私はふと幼少期に傘を持って棚田から飛び降りて遊んでいたことを思い出しました。小学生の頃は痩せていたこともあり体重はロボットの総重量とさほど変わらない30Kg程度だったと思いますが、体感的に落下速度を軽減することができたように記憶していました。
早速そのことをメンバーに伝えたところ、メンバーの殆どが同じく傘を持って飛び降りた経験があったことから、傘を使えば翼とパラシュートの機能を両立できるのではないかと全員のイメージが一致して、これをアイデアとしたロボットの開発がスタートしました。

まず取り組んだのは、利用する傘でどの程度の落下減速効果があるのか、定量的ではなくても目視により感覚的に落下の状態を把握したかったので、校舎の2Fから屋外へ延びる高さ8mの渡り廊下から、子機を想定した重さの重りを付けた雨傘を何度も落下させてその様子を観察しました。
その結果、雨傘では落下の減速は見られたものの満足できるほどのものではありませんでした。落下の途中で傘がお猪口(ちょこ)のようにひっくり返ることもしばしばありました。原因は傘の面積と骨の強度にありましたが学生達は実験を重ねるうちに徐々にこのアイデアに対する自身を失い、このアイデアを選択したことを後悔しているように私には見えました。

ある時、「このままこのアイデアを続けて打開策が見つからなければロボットの完成はないので別のアイデアに切り換えようか。」とメンバーに打診したところ、帰ってきた返事は「このアイデアで行きます。」でした。
実験を繰り返している様子や表情から諦めかけていると思っていたこともあったので、諦めていない強い意思表示が帰ってきたので正直驚きました。それから先は、迷いなくアイデアの実現に向けての試行錯誤を繰り返しました。


傘を使うアイデアの実証実験を行いました。子機を想定した重さの重りを付けた雨傘を何度も落下させてその様子を観察しました。実験では良い結果がなかなか出ませんでしたが、メンバーの強い意志であきらめず試行錯誤が続きました。

傘による落下の減速効果はこれまでの実験で確かめられていましたので、あとはこのアイデアの要件を満たす傘をどう調達するかということでした。
もし、世の中に存在しなければ自作することも覚悟していました。そのような中、たまたまゴルフ好きの友人宅にお邪魔する機会がありました。すると玄関先に通常の雨傘の1.5倍はある大きな傘が立て掛けてありました。
その傘はゴルフ用の傘で、骨組みはガラス繊維とカーボンファイバーで構成されていて軽い上に非常に丈夫にできていました。ゴルフをしない私にとってそれは「棚からぼた餅」的な出会いではありましたが、それを目にしたときにアイデアの壁を一つ乗り越えた高揚感がありました。
早速、メンバーにこの傘の存在を伝えて入手したゴルフ傘での落下実験を行ったところ、傘はお猪口になることなく落下の減速に対しても高い効果を発揮しました。こうしてメンバーの脳裏にはロボットの完成イメージが描かれ、一気にロボットの完成に向かって突き進みました。

ついに完成したロボットは傘を翼とした子機(8Kg)を親機に搭載しておき、ポンプで加圧した空気を自作のエアシリンダーに送って丸ゴムチューブを引き延ばした後に、そのゴムの収縮力を利用して子機を打ち出す方式となりました。
この時、伸張したエアシリンダーは子機の発射用スロープともなります。傘を翼として利用した実例を他で見聞したことがなかったことから、打ち出された子機の飛行姿勢がどのようになるのか大きな不安がありましたが、実験は予想以上に安定した飛行姿勢と衝撃の極めて少ない着地を見事に実証してくれました。
飛行姿勢の安定化の要因はもう一つあって、当時は有線コントロールだったので有線の重量が飛行姿勢に与える影響が問題となりますが、親機、子機それぞれに電源を設けて非常に軽い樹脂製の光ファイバーによる通信線1本で両機をコントロールするようにしたため、子機の飛行姿勢を損ねることはありませんでした。


第12回全国大会結果(1999年)。「Fly Do ポテットS」は、全国大会では優勝出来ませんでしたが、傘のアイデアが評価されて栄えあるロボコン大賞に選ばれました。

「Fly Do ポテットS」は地方大会で圧勝、全国大会では乾燥が原因と思われる箱サイズの縮小に、着地をした際に子機が抱えていた箱が前方に滑り出してしまい、優勝には手が届きませんでした。
しかし、傘を利用したアイデアが評価されてロボコン大賞に選ばれました。あの時、学生達が傘のアイデアを諦めていたらこの受賞はありえませんでした。いつもながら学生達の諦めない気持ちには頭が下がります。

さて、話を「ロボたちの帰還」に戻します。「Jump to the Future」と大きく違うのはロボットが接地禁止ゾーンを超えるところまでは良いのですが、再び接地禁止ゾーンを超え戻ってくるところにあります。私の経験ではロボットに回転翼が使用できない、ペットボトルに蓄積した圧縮空気の利用ができないなどルール上の機構的な制約があるため、先に紹介したようにロボットは障害物を飛び越えることを最も苦手とします。
加えて1チーム2台以上のロボットを製作するルールとなっています。今年度より地方大会の開催期日が早まり、最も早いところでは9月22日と高専では夏休み中に開催されます。夏休みの製作期間が短くなるのは痛手で、メンバーの少ない高専のチームは時間制約との戦いともなります。過去に例を見ない程の難易度の高い競技ルールを如何に攻略するか、常識に捕らわれない発想の転換が求められる競技に高専生はどんな答えを見いだすのか、本記事が少しでも参考になれば幸いです。


NHK学生ロボコンは国際大会であるABUロボコンの予選会でもあります。これらの大会は、スピード重視であり優勝ありきである大会に対して、高専ロボコンはアイデア勝負というところです。
学生たちの奇抜なアイデアによって、高専ロボコンはいつの時代も新鮮な大会となっています。


この記事を執筆している最中に大学生向けに開催されるNHK学生ロボコン2024の配信がありました。高専ロボコンと大きく異なるところをあえて言うなら「優勝しなければ価値が無い」というところです。
従って、競技はスピード重視であり高専ロボコンよりも奇抜なアイデアが出にくいと言えます。しかし、これらの技術はスピードと高度な制御技術を盛り込んでいることから社会実装の実体に近いとも言えます。

2002年からNHK学生ロボコンは国際大会であるABUロボコン(ABU Asia-Pacific Robot Contest)の予選会を兼ねることになりました。この大会で優勝すればABUロボコンに駒を進めることができるのですが、優勝を争う常連の大学として、豊橋技術科学大学(以下、豊橋技科大)(優勝9回)、東京大学(以下、東大)(優勝7回)があります。
今年は豊橋技科大が東大を破って優勝に輝き、NHK学生ロボコン初の3連覇を成し遂げました。それぞれのチームのロボットはいずれも素晴らしく優劣付けがたいロボットでした。勝敗を分けたのは連戦を勝ち抜いた末のロボットの安定感の善し悪しでした。

優勝した豊橋技科大はその構成メンバーの多くに高専ロボコン経験者がいます。私のチームの歴代OBもその中の一人として活躍してきました。
ある時、帰省したOBとで東大チームと豊橋技科大チームとの違いについて話題にしたことがあり、それぞれが勝っているところは何かと訪ねたところ「東大は偏差値と財力、豊橋技科大は高専ロボコンでの経験値。」と答えたことがあります。
少し話題を面白くした面もあると思いますが、今年の優勝戦を見て改めてこのときの話題を思い出しました。実践を学びとする経験値が勝敗を分けたように私には見えました。







藤本 浩
徳山工業高等専門学校 機械電気工学科 嘱託准教授
創造・特許教育を担当、二重螺旋ポンプ、電動車椅子用着脱可能な安全停止装置、乳幼児うつぶせ寝検出装置など数々の開発及び応用と、高専ロボコンには1991年開催の第四回大会から指導者として参加し、全国大会優勝、準優勝、ロボコン大賞、技術賞、アイデア賞等幾多の実績を有する。

『SolidWorksによる3次元CAD -Modeling・Drawing・Robocon』(共著)



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(掲載開始日:2024年7月26日)

大島商船高等専門学校の学生が起業!地域密着型サービスで地域を活性化する『株式会社Midmoa』


株式会社Midmoa記者会見様子。津田拳志郎さん(左から二人目)を中心に記者会見が行われました。
大島商船高専では、6月~8月は毎年、ハワイ州カウアイ郡と姉妹島提携を結ぶ周防大島町のアロハキャンペーンに協力して、アロハシャツで仕事をしています。

2024年5月21日、大島商船高等専門学校 情報工学科5年 津田 拳志郎つだ けんしろう さんが代表取締役を務める 株式会社Midmoaミッドモア が設立されました。
設立した企業について2024年6月26日に記者会見が行われました。

津田さんは高専に通いながら、剣道部や詩吟部等で様々な部活動を行い、学生会の副会長や寮長としても経験を積み、同校で文武を問わず体得した豊富な知見を活かし、地域密着型の情報サービスと農業サービスを提供するベンチャー企業を立ち上げました。
起業のきっかけは、「自分の技術やアイデアをカタチにし、社会貢献がしたい」という強い意志があり、高専起業家サミット(※)での成功も、彼の決断を後押ししました。特に商船祭や各種コンテストでの映像制作の経験や作品に対する評価が、彼の起業に繋がる重要な糧となりました。

高専起業家サミットで提案したビジネスプランはこちら

※高専起業家サミット:起業を目指す高専生がビジネスプランの発表・交流を行います。

株式会社Midmoaの事業内容


津田さんの事業についての発表の様子。事業の意義や具体的な事業構想について発表しました。

株式会社Midmoaは、地域の自営業者や個人事業主を支援する情報サービス及び農業サービスを提供することを目指しています。
具体的には、津田さんが映像制作を行った経験を活かし、PR動画やプロモーションビデオの制作、SNSやICT化コンサルティング、フォトグラメトリー(※)による3DCGデータの作成など、幅広いサービスを展開予定です。
また、生成AIを活用した映像・音楽・文章の制作や、スマート農業のフランチャイズ事業も手掛けていきます。

活動の拠点は大島商船高専のある周防大島町すおうおおしまちょうで活動を行います。その理由は、津田さんは高専生活を通じて地域の温かさを感じ、地域の皆様に恩返ししたい気持ちが強くあったからです。
将来的には、周防大島町から山口県全体、さらには日本全国へと事業を拡大する計画です。また、高専起業家サミットでも提案したビジネスプランを引き続き母なる北風研究室との共同研究で研究・開発、商品化を進めていきたいとの意向です。

※フォトグラメトリー(Photogrammetry):複数の写真を使用して物体や環境の正確な3次元モデルを作成する技術。写真を異なる角度から撮影し、それらを解析することで詳細な3Dモデルを生成可能。

あとがき


記者会見後の集合写真。写真右から大島商船高専 校長 藤本 隆士ふじもと たかし 先生。情報工学科5年津田 拳志郎つだ けんしろう さん。情報工学科教授 北風 裕教きたかぜ ひろのり 先生。

高専で培った研究や数多くのコンテストを通じて、起業を志す高専生が年々増加しています。
昨年から、高等専門学校では「高等専門学校スタートアップ教育環境整備事業」という新たな政策が施行され、起業家精神の育成と起業家としての資質や能力の向上を目的としたアントレプレナーシップ教育が一層強化されています。
この政策により、高専生たちは革新的な技術を駆使して社会課題の解決に挑戦し、日本だけでなく世界の経済発展にも貢献することが期待されています。

今後も、高専生たちが新しい技術やアイデアを活用し、起業家として成功することで、地域社会やグローバルな視点での活躍がさらに広がっていくことが期待されます。

(掲載開始日:2024年7月5日)

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